「いらっしゃーい」。このあいさつを聞いただけでも「大阪まで落語を聞きに来たかいがあった」と思った。そんな記憶がある。上方落語家の桂文枝師匠である

 というより、前名の三枝さん、いや、くだけた調子の愛称「三ちゃん」とも呼んでみたい。それほど親しみの持てる落語家だ。と書けば「前置きが長い」とお叱りを受けそうだが、演題に入る前の枕が巧みなことも文枝さんの持ち味である

 「こないだ…」。世間話かなと思って聞いていると、いつの間にか本題の創作落語が始まっていた。笑わせ、ハラハラさせ、時にほろりと涙も誘う。独特の世界に引き込まれる

 発想豊かな創作落語は文枝さんのライフワークで、271作に上る。そこに、鳴門市の依頼で「鳴門第九物語」が加わる。板東俘虜(ふりょ)収容所でベートーベンの「第九交響曲」がアジアで初めて演奏されたのは1918年6月だった

 松江豊寿(とよひさ)所長が人道的に処遇したので、捕虜たちは心置きなくドイツ音楽を楽しめた。映画でも、人情味にあふれる松江の姿が描かれていた。文枝さんの「鳴門第九物語」やいかに

 知名度が抜群の人気落語家は5月に、鳴門市の独演会で「第九」を語るという。来年は初演から100年。文枝さんの至芸に、松江所長と捕虜たちが雲の上で腹を抱えて笑い、泣く。私たちもまた渦の中に。