前年の配給でくじに外れ、ズック靴がもらえなかった。だから空襲のあった1945年7月4日未明も、父親が作ってくれたゲタを引っかけて外へ飛び出したはずだ。齋浦辰雄さん(83)は当時、国民学校5年生。徳島県庁近くの自宅で難に遭った
 
 燃える家並みを抜けて水田に潜んだ。焼夷弾(しょういだん)の雨はここにも。さらに東へ、と駆けだした途端、今いた場所に火柱が立った。前方にも炎が上がった。観念して、そばの用水路に飛び込んだ
 
 「怖かったかって? 覚えてないんです。家族の背中を夢中で追い掛けていた。命からがら、という時は、いちいち怖いなんて思っている暇はないのかもしれませんね」。橋の下、ヒルに吸い付かれながら、水に漬かって一夜を過ごした
 
 材木店だった自宅は全焼した。たまたま前日、疎開させようと大八車に積んでいた家財道具もろとも。やたら見通しの良くなった市街地。物不足の戦後も使い続けることになる鉄の風呂おけだけ、ぽつりと焼け残った
 
 幸い同級生は全員無事だった。「同窓会で戦争の記憶を語る人はいない。みんな一緒に貧乏で、みんな一緒に苦労した。だから話にならない」
 
 そんな体験を持つ人が減れば減るほど、政治の言葉が勇ましくなっていく気がするという。歴史は繰り返すとの文句も頭をよぎるこのごろ。徳島大空襲から72年。