たまたま乗ったタクシーで教えてもらった話である。5年ほど前のことだという。「運転手さん、寝てますか」。乗り込んできた客に、いきなり尋ねられたのだそうだ。夜のとばりが降りたころ、徳島港のフェリー乗り場でのこと

 いかにも気がせいているふうだった。行き先を聞いて、質問の意味がのみ込めた。遠出になるが睡眠は十分か、と確かめたかったらしい。客は言った。「高知まで。危篤の親が病院で待っている」

 斎藤茂吉の歌にある。<みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる>。東京から郷里の山形へ向かった茂吉。徳島港から高知を目指した客。時も場所も違えど、寸分たがわない心持ちだったに違いない

 一刻も早くと徳島自動車道を西へひた走り、高知市の中心部で降ろした。その後は運転手も知らない。知らないのだけれども、客と運転手、血の通った者同士の話だ。続きは一つあればいい。きっと、間に合ったのである

 <桑の香の青くただよふ朝明(あさあけ)に堪へがたければ母呼びにけり>。茂吉の実家は蚕を飼っていた。餌の葉のにおい満ちる明け方、こらえきれなくなったのだろう。母は程なく亡くなった。茂吉31歳のこと

 タクシーを降りて家に帰れば、薄墨のはがきが机の上に置いてあった。過ぎゆく者を振り返る。過ぎゆく時を振り返る。