徳島藩2代藩主、蜂須賀忠英公が築いた「牛込見附」の遺構を見に出掛けた。飯田橋の駅を出て九段方面へ。寒風の中、牛込橋を渡る。かつて何度も渡ったこの橋も、元は徳島藩が架けたものだ
東京に残る見附は、江戸城に通じる検問所。3代将軍徳川家光が有力大名に命じて造らせた。外様大名には、威信と忠誠を天下に示す「合戦」である。石垣と門の威容を競い合った
築造から2世紀半を経た明治期。牛込見附の撤去工事で、「阿波守」と刻印された石が見つかる。長辺2メートルほどの角柱は、歴史の証言者として牛込橋のたもとに横たわる
残念なことに、全体が汚れ黒ずんでいる。ハトは容赦なくふんを落とし地面すれすれの刻印も読み取りにくい。これでは忠英公もさぞや、である
「阿波守」はなぜ、長く見つからなかったのか。素朴な疑問がわく。阿波守の後に続く一文字は「内」と読むのが定説らしいが、「門」の略字ではないか、と思えて仕方がない。徳川の手前、言うに言えないが、わが殿の門なるぞ。そんな秘めたる叫びではなかったか
想像をたくましくしていると、正月の寒さも和らいだ。古い物が次々と捨てられる東京都心。一部とはいえ、石積みの遺構が382年の歳月を耐えたのは、高い完成度のゆえだろう。昔日の徳島人の汗と知恵を、現代に伝えている。