阿波藍の絶頂期は、意外な感じもするが、明治も後半。日露戦争の前年の36(1903)年、作付面積1万5000ヘクタール、葉藍生産2万2000トンと史上最高を記録している

 世界大百科事典(平凡社)によると、開国以来、インド藍の大量輸入が始まったが、それでもそれをしのぐだけの、旺盛な需要があったようである。だが、生産がピークに達したころ、化学染料がドイツからもたらされ、これには太刀打ちできなかった

 近代の技術によって、あっさりとなぎ倒された藍ではあるが、それまでの間、徳島にもたらした膨大な富は、ほかのどこにもない文化を育てずにはおかなかった。阿波踊りと人形浄瑠璃は疑いもなく藍の産物である

 地域の有形・無形の文化財をテーマでまとめ、魅力を発信する文化庁の「日本遺産」に、藍住町など県内9市町が申請した「藍のふるさと」が認定された。先に四国四県で選ばれた「四国遍路」と併せて、阿波藍を国内外にPRするチャンスだ

 藍作は、平安時代にもさかのぼるそうだ。東京五輪エンブレムの藍、ジャパンブルーの藍。私たちの先人は「日本の色」を育ててきたのである

 その盛衰は、徳島の歴史そのもの。近代以降の大量生産、大量消費には向かないが、だからこそ染め上げられるものもあろう。この機会に、まず足元の歴史を見直してみよう。