約600人が合唱した「第九」演奏会=6月2日、鳴門市文化会館

 鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所で「歓喜の歌」を歌ったのは、第1次世界大戦の中国・青島戦で日本軍に敗れたドイツ兵捕虜たちだった。鳴門市文化会館で開かれたベートーベン「第九」交響曲演奏会に参加し、「第九」を歌いながら、鉄条網の中で歌った彼らの気持ちに思いをはせた。

 徳島新聞1面で掲載された長期連載「第九永遠(とわ)なり」を担当したものの、実際に「第九」を歌ったことはなかった。周囲から「歌って初めて気付くこともある」と勧められ、ドイツ語の歌詞を覚えて舞台に立った。

 その言葉通り、合唱団に加わってみて強く感じたことがある。それは、歌い手たちが声を重ね合わせ、美しい響きで発信するメッセージ性の強さだ。連帯、平等、博愛という「第九」の精神は、歌詞の意味を知っていれば理解できるが、それらを希求する思いの強さは歌ってみなければわからない。

◆繰り返される歌詞

 合唱では「全ての人々は兄弟になる」「抱き合え、幾百万の人たちよ」という二つの歌詞が何度も反復される。特定の語句を繰り返すことで、シラーの詩を基にしたベートーベンのメッセージが、これでもかと強調されている。

 この歌詞を、戦争で捕らわれの身となって3年半が経過していた捕虜たちは、どんな気持ちで歌ったのか。

 歴史は往々にして美化される。戦時中の敵国の収容所で、捕虜が人類の融和と平和を願って歌った「板東の第九」。それは、後の世の人たちの「そうであってほしい」という願望を反映させた幻想にすぎないという見方がある。

 連載取材でも「『全ての人々』は、今日的な『全人類』の意味ではなく、ドイツの民族に限定される。『板東の第九』は、ドイツ人の誇りと優位性を示すものだった」という専門家の指摘を聞いた。

 確かに、そういう面もあったのだろう。しかし今回、実際に歌ってみて確信できた。101年前、「人類が融和し平和な世界が訪れてほしい」と願って歌った捕虜は少なからずいたはずだ、ということを。

 鳴門市文化会館に集まった県内外約600人の合唱団が心を一つにした第4楽章のクライマックス。ベートーベンのメッセージをかみ締めながら、「全世界に届け」と融和への願いを歌声に乗せた。体の底から湧き上がるこの感情が、同じ歌詞で歌われた101年前の「第九」と全く違うものとは思えない。

◆大戦中も自由願う

 「第九」の演奏史に詳しい獨協大学の矢羽々(やはば)崇教授(ドイツ文学)によると、第1次世界大戦中の1918年1月1日、ベルリン・フィルハーモニーがドイツで「第九」を演奏している。このコンサートを伝える翌日の政党機関誌には「現在という時点においてほど、ベートーベンの第九がより深い意義を持ち、より明らかな象徴的意味を得る時点はなかった。その演奏は、昨日の元日にはまさに力強い平和への叫びとして感じられたに違いない」との記事が掲載された。

 「第九」は戦時中のドイツでも、平和のメッセージを発信するために演奏されていたのだ。

 歌詞の基になったシラーの「歓喜に寄せて」は本来、「自由に寄せて」としたかったが、検閲を恐れて「自由」を「歓喜」に変えたという説がある。これに対し矢羽々教授は「伝説であり、事実ではない」と話す一方、「第1次大戦中のドイツで、その説は流布されていた」とも指摘する。

 板東のドイツ兵の中にもこの説を信じていた捕虜がいてもおかしくはない。「第九」を「自由」の象徴とし、捕虜たちは望郷の念や自由への願いを歌声に込めたのも確かだろう。一方で、戦争でのドイツの勝敗を超えた平和への渇望を、同時に胸に抱いていたとしても何ら矛盾はない。

 その思いに至ったとき、やはり鳴門で歌う「第九」は特別なものだと感じた。全国の至る所で演奏会は開かれているが、「第九」のメッセージを鳴門市から発信することは意義深い。

◆分断見直す契機に

 連載取材を通して「分断」「対立」「不寛容」の風潮が覆う現代社会の対立軸として、「板東の第九」を見直すことの必要性を訴えてきた。その社会の風潮は連載終了後、1年を経て改善されるどころか、一段と深刻になってきている。

 記念のイベントに関わる人たちからは「一過性のものに終わらせたくない」という声をよく耳にする。しかし、記念の年が終われば関心は薄れ、次々と起こる出来事によって記憶の片隅へと押しやられてしまう。

 しかし、鳴門の「第九」演奏会はそうであってはならない。来年はベートーベン生誕250年、2024年はウィーンでの初演から200年というメモリアルイヤーが続く。これらの節目を活用しながら「板東の第九」に目を向け、その意義を鳴門、徳島から発信し続けなければならない。初めて鳴門で「第九」を歌い終え、そんな思いを強くしている。(藤長英之)