こども野球のつどい第60回記念大会を特集した紙面

 今年も、この季節がやってきた。徳島県の小学生野球の祭典「こども野球のつどい」。今大会は60回の節目を迎える。メジャーリーグで活躍した川上憲伸さんも、池田高校の夏春連覇に貢献してプロ野球に進んだ畠山準さんや水野雄仁さんらも、この大会に出場した。もちろん、汗を流したのは、有名な選手ばかりではない。県内各地の子どもたちが、炎天下の吉野川河川敷で白球を追い、それぞれの人生へと歩んでいる。

 こども野球のつどいが始まったのは、1960年8月。きっかけは、その2年前にさかのぼる。58年夏の甲子園大会で、徳島商対魚津(富山県)の延長18回引き分け再試合があり、県民は熱狂した。板東英二、村椿輝雄両投手の死力を尽くした投げ合いに触発され、野球少年が激増した。

 第1回大会の徳島新聞社告には、こうある。「毎日のように本社に寄せられている小学生ファンの熱望に応えて、大会を企画したものであります」。子どもたちの野球へのあこがれが大きなうねりとなり、大会は誕生した。

 県内各地から52チームが参加。7日間にわたり熱戦を展開した。決勝は全坂野-横須の小松島勢同士の争いとなり、8-5で全坂野が勝ち、初代王者となった。

 当時の優勝メンバーの1人は、「こども野球のつどい」の50回目を記念した徳島新聞の記事で、こう語っている。「優勝のご褒美に徳島駅前の食堂で生まれて初めてハヤシライスを食べ、この後、オート三輪に乗って町内を凱旋(がいせん)パレードしたんよ」。60年といえば、昭和35年だ。

 以来、大会への参加チームは増加し、一時は200チームを超えた。プロ野球のロッテで活躍した里崎智也さんや、福岡ソフトバンクの森唯斗投手らは優勝している。森投手と決勝で対戦したチームの主力には、オリックスの杉本裕太郎外野手がいた。巨人で売り出し中の増田大輝内野手も、準優勝している。

 7月11日の朝刊で、現在プロ野球で活躍する選手たちの思い出やメッセージを紹介している。紙面で見ていただくとして、ここでは、10年前の50回記念大会の特集紙面に掲載された、川上憲伸さんと水野雄仁さんの記事を紹介したい。

 川上憲伸さん

 「第50回記念徳島新聞社こども野球のつどい」の開催、おめでとうございます。小学6年生になるころに国府少年野球クラブに入り、野球を何よりも大切に思っていたことを思い出します。野球が早くしたくて、帰宅後に宿題を素早く片づけようとしていたことも思い出です。
 
 こども野球のつどいは吉野川河川敷運動場が舞台。何回戦かは忘れましたが、レフトオーバーの特大ホームランを打ったと思ったら、離れた所で別の試合をやっているチームのライト選手の頭を直撃しボールが戻ってきてツーベースになって悔しかったことも記憶にあります。

 野球はチームメートたちとの友情を深めるのにいいスポーツです。一日一日、ワンプレーワンプレーを大切にし、掛け替えのない仲間と楽しんで野球に打ち込んでください。勉強との両立も忘れないでください。

 水野雄仁さん

 35年前の夏。私の野球人生は「徳島新聞社こども野球のつどい」から始まった。1回戦の八万B戦に宝田ダックスの一員として初出場し、途中からライトを守った。

 当時は小学3年生。出場資格はなかったが、小規模校チームゆえに選手が少なく、試合が延長戦にもつれる中、交代選手がいなくなり違反を隠しての出場だった。

 試合は延長九回の末に4-5で敗れた。だが、私にとって、つどいは高校球児あこがれの甲子園のような存在。つどいで初めてプレーした喜びは今でも忘れられない。父によると、満面の笑みを浮かべながら飛び跳ねるようにしてライトの守備位置へ駆けていったそうだ。

 少年時代は「つどいで優勝する」ことが目標だった。そして、その先に広がった「将来はプロ野球選手に」という大きな夢-。振り返れば「野球がうまくなりたい」という思い一つだった。

 練習拠点は阿南市内の宝田小学校の小さなグラウンド。子どもながらに「あのフェンスを越えたらプロ野球選手になれる」という思いで毎日、懸命にバットを振った。

 私に夢を待たせてくれた、こども野球のつどい。今後も県内の少年球児に夢を与え続けてほしい。50年という歴史と伝統の重みに思いを寄せながら、あの吉野川河川敷グラウンドから一人でも多くのプロ野球を目指す少年が現れることを願う。

 こども野球のつどいは、時代は変わっても、多くの子どもたちのあこがれであり続けている。将来、プロ野球選手を目指す人もいれば、中学校からは別のスポーツや勉学に励む人もいるだろう。進む道は違っても、友だちと共に懸命に努力した時間は、それぞれの思い出や大きな財産になっているのではないだろうか。

 以下は、ある無名の野球少年の思い出である。少年は小学4年生の時に、地元の少年野球部に入った。田舎の小さなチームで、各種大会では1回戦か2回戦を勝つのがやっとのレベル。それでも、少年にとってレギュラーになるのは簡単でなかった。6年生になってようやくつかんだレギュラーだったが、打順は下位。ヒットすらそんなに打てず、ホームランとは無縁の選手だった。それが、「こども野球のつどい」で、ホームランを打った。なぜ打てたのか、分からない。その後の試合でもホームランは打ててない。少年は小学生で野球をやめたため、「最初で最後のホームラン」になった。

 ホームランを打つと、翌日の徳島新聞の朝刊で名前が載る。少年は初めて自分の名前が新聞に載って、喜んだ。その感動が、心の奥底にあったのだろうか。少年は新聞社に入社した。なんと同じ社には、ホームランを打った時のピッチャーがいた。吉野川の河川敷は不思議な縁をもたらしてくれた。無名の野球少年は今、新聞社で編集委員を務めている。(卓)