徳島市で今夏、広島平和記念資料館(広島市)が所蔵する被爆者の遺品などを紹介した「ヒロシマ原爆展」が開かれている。日本に原爆が投下されてから74年。被爆者の高齢化が進む中、広島と長崎の被爆証言を語り継いでいる人たちがいる。その一人が、小学校から高校時代を徳島県内で過ごした沖西慶子さん(54)=ビオラ奏者、広島市。母が長崎で被爆した。日本の被爆の歴史を改めて考えたいと、広島に訪れた。

 悲しみや無念ビオラの音色に 「語り」聞き歴史感じて

 7月初旬、沖西さんと待ち合わせた広島市の平和記念公園に向かった。公園は、戦後日本を代表する建築家丹下健三(1913―2005年)が設計し、アーチ型の慰霊碑に向き合うと、後方にある原爆ドームに焦点が合う。被爆という悲劇と平和への祈りを象徴するこの場を、さまざまな国からの旅行者や修学旅行中の小中学生が行き交っている。

被爆者の体験を語り継ぐ沖西さん=広島市の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

 沖西さんは16年から広島市の「被爆体験伝承者」、17年から長崎市の「家族証言者」として、被爆者の体験を語り継いでいる。08年に甲状腺の病気にかかり、「被爆2世」であることを意識したのが、活動のきっかけとなった。

 語るのは、長崎で被爆した母素子さん(84)と、広島で被爆した細川浩史さん(91)の体験。細川さんとは伝承者の育成研修会で出会い、沖西さんが被爆証言を受け継ぎたいと望んだ。

 平和記念公園の一角にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で講話を聞いた。

 話は細川さんの被爆体験から始まる。原爆が投下された1945年当時は17歳で、広島逓信局に勤めていた。7月、福岡での赴任を終え、広島県の宮島にある自宅に戻る。

 細川さんには13歳の妹森脇瑤子さんがいた。投下前日に当たる8月5日の2人の時間は穏やかだった。ピアノでブルグミュラーの練習曲を弾く妹と、聴く兄。「一緒に大好きな音楽で過ごす大切な時間でした」

 米軍が原爆を投下したのは6日の午前8時15分。その日の朝の様子は―。

 「『行ってきます』。元気よく、走って出ていった瑤子さんの声を細川さんは聞きました」「逓信局に出勤した細川さんは8時から、4階の柱に近い席で仕事を開始。しばらくすると突然、雷が何度も同時に落ちたような強烈な光が見えました。その瞬間、激しい爆風に吹き飛ばされて、床にたたきつけられました」

細川さんの妹森脇瑤子さんの遺品や写真=広島平和記念資料館

 逓信局は爆心地から1・3キロ。柱が盾となり、細川さんはやけどを免れた。しかし、全身に窓ガラスの破片が刺さり、血まみれで河原に逃げた。

 一方、瑤子さんはこの日、同級生と一緒に建物疎開を行っていた。空襲による火災の延焼を防ぐため、建物を壊しておく作業だ。爆心地から700メートルの地点で屋外にいたため、ほとんどの同級生は即死。避難した瑤子さんは救援トラックで小学校に運ばれた。

 「全身やけどがひどく、重症でした。地元の主婦が付き添って看病してくれました。『お母ちゃん、まだ来てない?』と何度も聞きながら、お母さんの迎えを待っていました」。瑤子さんは母と会えないまま、夜遅くに息を引き取った。

 細川さんが瑤子さんの死を知るのは翌日の7日、やっとの思いで帰宅した後だ。

 講話は、母素子さんの体験へと続く。長崎に原爆が投下された1945年8月9日朝、小学5年生だった素子さんは、長崎市内で同居していた、いとこの忠三さん(当時17歳)が長崎兵器製作所に出勤するのを見送った。

 午前11時2分、米軍が原爆を投下。忠三さんはその日、家に帰ってこなかった。翌10日、忠三さんの父と姉が工場に行くと、がれきの山だった。2人は工場の灰を梅干しのつぼに入れて、持ち帰って泣いた。

 2人の体験を語った後、沖西さんはビオラを弾いた。曲は、音楽教師だった瑤子さんの父が従軍中の中国で作った「娘愛し」。最初は明るい長調だったが、その死を知って短調に書き換えた。沖西さんが奏でる悲しい調べが、会場を満たした。

 被爆者の平均年齢は82歳を超える。自ら体験を語れる被爆者は年々、少なくなる。沖西さんは、伝承者の役割を「通訳のように、体験を分かりやすく伝えていくこと」と考えている。

 ただ、「語りによる伝承」は常に不安定さを伴う。被爆体験は百人百様で、語り手が変われば、捉え方も異なる。事実と乖離したストーリーが広がる懸念も捨て切れない。

 それでも、沖西さんは「語り」が持つ力は大きいと言う。伝承者は被爆者から3年かけて何度も話を聞き、体験を受け継ぐ。「(話者と)向かい合って話を聞くことで、経験は共有されていく」

 広島平和記念資料館では伝承者の講話が毎日3回、開かれている。沖西さんは願う。「多くの人に聞きに来てほしい。広島、長崎の地に立つことで、被爆という歴史を感じてほしい」

 広島平和記念資料館で開催中の新着資料展で、瑤子さんの遺品が展示されている。母親の着物をほどいて丁寧に縫った制服や、細川さんが後日、建物疎開の現場で見つけた赤い千代紙の箸袋―。尊い日常が残酷に断ち切られた現実が、まざまざと伝わってくる。

 [被爆体験伝承者、家族・交流証言者] 被爆者の高齢化が進む中、広島市は2012年に被爆者の体験を語り継ぐ「被爆体験伝承者」、長崎市は14年に「家族・交流証言者」の養成を始めた。現在、登録者は広島市が131人、長崎市は32人。