スクールバスを待つ児童らが襲われた無差別殺傷事件の現場。張り出されたあいさつ文が胸を打つ=川崎市

 衝撃的な事件が起これば、つい過去の事件は記憶から薄れがちになる。京都アニメーションの放火事件があまりに悲惨すぎるため、川崎市でスクールバスを待つ児童らが襲われた無差別殺傷事件のことは、今どれだけ人々の心に強く残っているだろうか。5月28日に発生してから、まだ2カ月もたっていない。

 東京に出張する機会があり、川崎市の現場を訪ねた。登戸駅から歩いて5分ほど。マンションや家が並び、すぐ近くには緑あふれる公園がある。閑静な住宅街といった雰囲気だ。平日の昼間だったためか、高齢者やベビーカーを押す母親らが行き交う。ごみ収集車から流れるゆるやかなメロディーが、のどかさをより醸し出す。事件の現場であることはうかがえず、恐らく事件前とほぼ変わらない日常の風景なのだろう。

 そんな中、小さな張り紙があった。「お供えをいただきましたお花等については、2019年7月1日をもってすべて学園に移させていただくことになりました。これまで皆さまがお寄せくださいました温かいお気持ちに、改めて感謝申し上げます」。一気に、事件の現場であることを実感させられる。テレビで流れた事件当日の映像が思い起こされ、何の変哲もなかった空気感が、どこか違うように感じる。

 改めて悲しみが湧き上がり、「なぜ」が繰り返される。なぜ何人もの人を刺したのか。なぜ幼い子どもの命が奪われなければならなかったのか。決して事件前の日常に戻らない人がいる現実を、突きつけられる。

 それにしても、凶悪で悲惨な事件が後を絶たない。「なぜ」しか出てこないが、「なぜ」を解明しなければ、事件の再発防止は見えてこない。

 その夜、ホテル近くの飲食店街は大勢の人でにぎわっていた。「やはり東京は景気がええなあ」と、都市と地方の格差を痛感するとともに、相次ぐ凶悪事件のことが頭の中をよぎっていた。光があれば影がある、と言われる。表面上はなかなか見えない社会のひずみ。いや、見えているのに、目をそらしているのかもしれない。政治も、私たちも、今の社会の姿を、もっと深掘りする必要があるのではないか。そのためにも、事件の記憶をしっかり心にとどめておかなければならない。(卓)