明治中期から昭和初期にかけ、現在の美波町や阿南市椿泊町などから九州へ遠洋漁業に出向き、後に定住して事業を興した漁業者たちの子孫と、美波町との交流が新たに始まった。薄れつつあったつながりの復活を願う町の呼び掛けに応じ、先祖が築いた会社を経営する4人が福岡市から来町した。町は出漁者の功績を後世に伝えていく考えで、今後も交流を深めていく。
来町したのは▽物流会社福岡倉庫の富永太郎さん(45)▽総合水産業トクスイコーポレーションの徳島建征さん(47)▽増田石油の増田成泰さん(46)▽不動産開発業廣田商事の廣田稔さん(54)。4社とも福岡市に本社を置く。
それぞれの社の礎を築いたのは▽大正時代に出漁した漁師のリーダー格だった富永恒太郎=旧日和佐町出身▽昭和30年に日本と中国の漁業紛争の解決に尽力した徳島岩吉=同▽三岐田町(旧由岐町)の町長を務めた後、製氷
、重油業で漁を支援した増田茂吉▽出漁は後発だったものの底引き網漁を発展させた椿泊出身の廣田善吉。
この4人のそれぞれ3、4代目に当たる4社長は、2月27、28両日に美波町を訪れた。27日はコワーキングスペース「ミナミマリンラボ」(同町日和佐浦)で、町幹部や町商工会青年部の経営者ら約30人と意見交換。28日は郷土史に詳しい町商工会の中東覚会長(69)の案内を受けながら、生家や記念碑などを見学し、先祖の足跡をたどった。
九州で事業を興した県南部出身者たちは定住後も、浄財を集めるなどして古里の発展に貢献した。美波町内には徳島岩吉や増田茂吉ら関係者の銅像や記念碑も建立されている。しかし、月日がたつとともに、歴史を知る住民は少なくなり、表立った交流もほとんどなくなっていた。
こうした中、町の歴史を調べていた町総務企画課の勘場瀬貴志主査(46)が九州での功績に感銘を受け、富永さんに連絡。昨年8月ごろから来町の準備を進めた。富永さんは、徳島とゆかりがあることを知っており、普段からつながりがある3人に呼び掛けた。
町は今後、住民と一緒に九州を訪れたり、出漁の歴史を顕彰したりすることなどを検討する。影治信良町長は「今回生まれた連携を大事にしていきたい。若い世代も交流できる新たな関係性を築いていければ」と話す。
富永さんは「自分のルーツが色濃く残っていることを知り、感動した。この縁をきっかけに交流を継続させていきたい」と語った。
■県南部から九州への出漁■ 1888(明治21)年に由岐の漁師による博多沖でのタイの一本釣りから始まった。はえ縄漁が盛んになった大正時代は日和佐、由岐、椿泊の漁師らが漁場に近く、餌が確保できる長崎県・五島列島福江島の玉之浦港を本拠地に「徳島県九州出漁団」を結成。家族を呼び寄せ、玉之浦には徳島の関係者約3千人が暮らし、西日本有数の漁港として発展したとされる。昭和に入り、底引き網漁が主流になると、出漁団は流通の利便性が高い福岡市や長崎市などへ拠点を移した。水産業を中心に多くの実業家が生まれた。