事故現場に設けられた昇魂之碑=群馬県の御巣鷹山

 徳島県民の多くは、8月12日といえば、阿波踊りの初日と答えるかもしれない。でも、私は街からぞめきが聞こえ始めると、遠く群馬県に思いをはせる。日航機が「御巣鷹の尾根」に墜落し、520人が犠牲になった日である。1985年8月12日。今年で34年を迎えたが、その思いは変わらない。

日航機が木々をなぎ倒した痕が、U字にへこんだ状態で今も残る(2015年の取材当時)

 徳島県の在住者や出身者も10人が亡くなった。東京発大阪行き。なぜ徳島県関係の人がこれほど乗っていたかというと、当時の徳島空港は滑走路が短く大型機が離発着できなかった。お盆などの際には「乗れない悩み」が指摘されていた。犠牲になった人の中にも、徳島便が取れずに大阪便に回った人が多くいた。

 事故が発生した時、私は高校生だった。テレビで映し出される現場の様子に衝撃を受けた。奇跡的に助かった女の子がヘリコプターで救助される場面は、今なお鮮明に残る。後に、事故の取材に奔走した地元紙を描いた映画「クライマーズハイ」が上映されたこともあり、一度現場を訪れたいという思いを、ずっと抱いていた。

 事故から30年を前にした2015年6月、御巣鷹の尾根を訪れた。当時の様子を書き記しているので少し紹介させていただきたい。

 高崎市からバスで「御巣鷹の尾根」に向かった。1時間ほど走ると、墜落現場のある上野村に入り、周囲の山々が山深い地域に入ったことを感じさせてくれる。徳島県で言えば、木屋平や木頭など剣山系のふもとの地域に似た光景だ。

 道は次第に狭くなり、車が1台通れるのがやっとの幅。出発から2時間を越えて登山口にたどり着いた。

 出発前の蒸し暑さが嘘のようにひんやりとした空気が肌を刺す。標高は1359メートル。冬期は雪に覆われ、登山が解禁されるのは4月末から11月中旬に限られる。

 登山口から墜落現場へ歩き出す。木を埋め込んだ階段が作られ、ところどころには手すりのほか、ベンチや水飲み場も備えられている。遺族らが登りやすいよう、事故後に整備された。

 事故前は人が入らない未踏の地だった。具体的な地名がなかったため、少し距離の離れた「御巣鷹山」から、当時の上野村長が「御巣鷹の尾根」と名付けたとされるほどだ。事故当時は車が行けるところから道なきところを切り開いて進み、自衛隊員や消防団員、報道機関の記者らは約4時間かけて現場に到着したという。

 登り始めて約30分。墓標が目につき始める。遺族たちが、遺体が見つかった場所に立てている。さらに登ると、視界が開け、平らなスペースが広がった。1539メートルの墜落現場。慰霊の思いを込めた「昇魂之碑」や「安全の鐘」が設けられている。

 「あちらを見てください」。山の管理人が指差した方向に目をやる。向かいの尾根がU字にへこんでいた。「あちらの木をなぎ倒してこちらの尾根にぶつかりました」。鳥の鳴き声が響き、爽やかな風が吹き抜ける山の尾根。事故の形跡がなくなった中、当時のすざましさを物語る。

 下山後、上野村役場近くの「慰霊の園」を訪れ、当時の消防団員に話を聞いた。

 団員はこう振り返った。テレビを見ていたら、「日航機がレーダーから消えた」というテロップが流れた。その後も、さまざまな情報が飛び交う。確定した情報がないまま夜が更け、未明になって近くの道を行き交う車両が増えていく。「これは近くや」と思っていたら、午前5時に召集がかかった。

 現場近くと思われる場所で車を止め、道なき道を進む。上空を旋回するヘリコプターを頼りにし、草木を切り開いて進む。ようやくたどり着いた現場で最初に見たのは外傷のない遺体。マネキンかと思った。さらに進むと、遺体が積まれていた。急斜面で並べる場所がなかった。また飛行機の墜落事故と思うことができないほど機体の跡形がなく、かろうじて分かった窓枠を見て、初めて実感したという。

 そして最後に話した。「毎年慰霊祭に訪れる人たちは高齢化し、上野村でも知らない人も増えている。でも絶対に忘れてほしくない。風化させてはならない」。

 徳島県の関係者も高齢化している。遺族でつくる「8・12連絡会」の活動にかかわり、私たちの取材に応じていただいていた女性も昨年、亡くなった。

 事故から30年たった年に、連載「御巣鷹と徳島」を企画し、デスクとして担当した。記者が何人かの遺族に取材をお願いし、当時の様子や今の思いなどを聞いた。この中に、初めて取材に応じてくれた女性がいる。関東に住む徳島県出身者。同じく徳島県出身者の夫を事故で失った。

 当時は関西に住んでおり、夫は東京からの帰りだった。女性は「帰りは新幹線」と聞いていた。状況がつかめないまま、現場へ向かった。待機所に着いてからは、何の情報もない日が続いた。遺体安置所に案内されたのは、到着して1週間後。確認した途端、泣き崩れたという。

 なぜ飛行機に乗っていたのか。搭乗を予定していた同僚が、急きょ都内に滞在することになり、航空券を譲り受けていたそうだ。

 悲しみに暮れ、これまでマスコミの取材は一切、断ってきた。「なぜ、今回初めて取材に応じていただいたのか」。記者の質問にこう答えている。「郷里の人に主人のことを知ってもらいたかったから」

 私は、御巣鷹を忘れない。(卓)