佐川恭一さん

佐川恭一さん

「踊る阿呆」佐川恭一

 別に阿波踊りが好きなのではなかったが、みんな「徳島といえば阿波踊りやんね?」と言ってくるし、ほかに特技もないので阿波踊りをしていた。サークルの自己紹介。東京出身の太田はテコンドーが特技で、ネリチャギと呼ばれるかかと落としのデモンストレーションで微妙な拍手を誘っていた。富山の渡部はもののけ姫の歌が歌えるというので歌ったが、ただの裏声なだけでスベッていて、あれが自分だったらと思うとゾッとする。僕は阿波踊りさえやっていればいいというのがあるから、東京とか富山よりは幾分やりやすいのかもしれない。大阪の服部は別に面白くなくて無口で趣味は写経、岐阜の永沢は「さるぼぼ」という飛騨のお守りみたいなやつの紹介をして、自分はいつもさるぼぼストラップを身につけているのだと言ったが、どう見てもキャラ付けのためにさっき買ったみたいな雰囲気だった。僕が徳島のマスコット「すだちくん」のストラップを持ってきても、多分あんな感じになるだろう。自分の番が終わるまで緊張していて気づかなかったが、よく見るとみんなそれぞれに困っているようだった。

 自分とはなんぞや?

 そんな死ぬまでに掴みきれるかどうかすらわからないものを、半信半疑のまま誇張してアピールしなくちゃならないなんて地獄だ。こういうときに自信満々のやつなんて、何も考えてないだけじゃないのか? 自己紹介の後、場があたたまってからそんな話をしてみると、写経の服部は「そういうやつもおるやろけど」と言った。
「でも仕事にせよなんにせよ、あなたはどういう人間ですかって問われる機会はいっぱいあるわけやん。みんなひまじゃないんやし、それなりのスピード感も求められるわけやん。そんときにパッと自分をアピールできるような社会性は大事やと思うし、俺にはお前のほうが何も考えてないように見えるで」

 僕はおとなしそうな服部に予想外の一撃を食らってしまい、やはり来たるべき勝負のときのため、阿波踊りに磨きをかけておいても損はないだろうと思い直した。それ以降、YouTubeの動画を見ながら真剣に練習を重ね、みんなが飽きることも見越して、ダパンプやエグザイルのダンスと混ぜたようなハイブリッド阿波踊りをいくつも開発した。そもそも阿波踊りは盆踊りに熊本の牛深ハイヤ節や大阪の砂持を混ぜ合わせてできたと言われているし、今の主流の踊り方だってたかだか三十年だか四十年前に作られたのだから、時代に合わせて常にアップデートされてゆくはずのものなのだ。

 やがて、サークルでの打ち上げなどがあると、流行の音楽に合わせて僕がハイブリッド阿波踊りを披露するのが恒例となっていき、なんとなくみんなが一発芸を持たねばならないような空気感が醸成されていった。あるときなど、滋賀出身の守屋が顔を真っ赤にして「地元で、江州音頭っていうのがあって、それやります」と言い、「ヨイトヨイヤマカ、ドッコイサノセ」と聞き慣れないかけ声をかけて踊りはじめたが、緊張がビンビン伝わってきて見ているほうがつらくなった。部長が「守屋、あんま無理すんなよ!」と茶化し、それでメンバーたちが笑ってなんとか終わる、といった形に落ち着いたのだが、守屋はそれからうつむいてひと言も話さなかった。

 サークル活動をやっていればそのうち彼女ができると信じて、僕はかなり熱心に参加した。みんなが嫌がる雑用を積極的に引き受けたり、飲み会の幹事をやったり、こじれた人間関係の調整役に回ったりと縦横無尽の活躍で、もはや僕のおかげでサークルが存続していると言っても過言ではなかったはずだ。しかし彼女はできなかった。そればかりか周りのやつらばかりがくっついて、サークルの会合など公の場でも、イチャイチャを必死で我慢しているのが痛いほど伝わってきた。それは目の前で直接イチャイチャされるのよりもはるかにエロティックで、こちらへのダメージも大きいのだった。

 僕がハイブリッド阿波踊りを披露してみんなが笑っているとき、カップルはテーブルの下でそっと手を握り合っていたりする。それがハイブリッド阿波踊り中の僕にはとてもよく見えるし、「それで隠せているつもりか?」と追及したくなることもしばしば。僕は日に日に自分の笑顔が凍りついていくのを感じていた。あまりにもストレスが溜まるので、部屋に置いた人型サンドバッグに奇声を発しながら打撃を加える習慣もついた。あの最初の自己紹介で見た太田のネリチャギも見よう見まねで練習して、かなり形になったのではないかと思う。しかし、僕にハイブリッド阿波踊りが期待され、かつサークルにネリチャギ第一人者の太田がいる限り、披露の機会はなさそうだったが……

 

 サークル加入から一年半がたつと、内部でくっつくべき者らはあらかたくっついてしまった。特に、僕の企画した四国旅行で訪れた祖谷のかずら橋では、心理学でいう「吊り橋効果」も相まってか三組ものカップルが誕生した。僕は他ならぬ自分がそのドキドキ効果を狙って行き先にかずら橋を加えたのだったが、恩恵に与ることはできなかった。他の者らもみな外部に恋人をつくってよろしくやっているようで、あの写経の服部にさえ恋人ができ、様々な寺院をめぐる写経デートを敢行しているらしかった。

「コレもだんだん写経の良さわかってきよったわ」

 いつの時代の生き物なのか小指を立ててそう語る服部は、はじめて会ったときよりも幾分目に光が宿っている。僕は写経デート自体を羨ましいとは思わないが、仏教に関して僕と同程度の薄い興味しか持たないらしい女の子がねばり強く写経に付き合っている、その背景に大きな愛を感じて、嫉妬を覚えずにいられなかった。もともと僕と変わらず地味なタイプだった服部は、彼女ができて以降どんどんオシャレになっていった。僕はそれを見て「垢抜ける」とはどういうことか理解したつもりだったが、がんばって服部を真似してみても全然だめだった。何が違うのか悩んでいると、岐阜の永沢が「それはファッションの問題やなくて、精神の問題なんやない?」と言った。
「精神の余裕こそが『垢抜ける』ことの肝であって、オシャレせなとかモテたいとか焦っとる状態やと、どうしても垢抜けんのやと思う」

 永沢はもう「さるぼぼ」を身につけていなかった。永沢にはすでに可愛い彼女がいた。サークルの中でも人気者の桃井さんだ。明るくて愛嬌があって誰とも分け隔てなく接するから、勘違いするやつが多かった。桃井さんの取り合いでサークル内の紛争が勃発したとき調整役になったのは僕で、みんなと適切な距離感覚を保って対話するのには骨が折れた。そうして複雑かつ曖昧な諸関係が整理された結果、桃井さんは永沢と付き合ったのだ。僕はこの見事な潤滑油ぶりに誰か惚れてくれたりしないかな、と淡い期待を抱いたがだめだった。誰かに無二のパートナーとして認められようというとき、必要なのはアシスト力でなくシュート力なのである。

「お前、さるぼぼは?」

 僕は少し腹を立てて、嫌がらせのつもりで言った。しかし永沢は「ああ、家にあるけど、正直あれ、もともと持ってたんやないんよ。自己紹介用に買ったんよ」と言って屈託なく笑った。もうこいつはさるぼぼなしで生きられる、自立した人間なのだ。痛いところを突いたつもりだった僕は、「なんじゃそれ」と言って笑顔を作るのが精一杯だった。自分のあまりの卑小さに視界が滲んで、欠伸のせいにした。

 結局、サークルで最後まで彼女がいない男は、僕と江州音頭の守屋だった。ただ、僕はサークル内である程度うまくやっていた。特に徳島の誇るアーティスト・米津玄師の紅白出場曲「Lemon」を「すだち」にマイナーチェンジしたものに阿波踊りを合わせたダンスは前衛的だと噂になって、ダンスサークルのやつらまで見学に来るほどの評価を得たし、友だちだけならかなり増えていた。僕を見かけると突然ダンスで勝負を挑んでくるタフなBボーイも頻繁に現れたが、僕はつねにハイブリッド阿波踊りで撃退した。

 一方の守屋は友だちすら作れていないようで、僕はそのために守屋よりも自分を上位だと考えていた。情けないことだが、いわゆるマウンティングというやつだ。守屋はいつも自分から話すことはなく、ひとが話しているのを聞いて弱よわしく笑うのみで、たまに話を振られると懸命に繋ごうとするが、いつも失敗して場をシラけさせてしまうのだった。

 
 サークルに入って二回目の忘年会。僕はいつものようにハイブリッド阿波踊りを繰り出して、みんなも気分上々アゲアゲ☆サタデーナイトといった趣だったのだが、突如守屋が立ち上がり、「江州音頭やります!」と言った。かつての気まずさが脳裏に蘇ったのか、部長は「無理すんなって」と止め、みんなも「やめとけやめとけー」と野次ったが、守屋は「ヨイトヨイヤマカ、ヨッコイサノセ!」と叫ぶや否や、滋賀の誇るアーティスト・TMレボリューションの音楽と江州音頭を合わせたいわば江州音頭レボリューションを披露した。人間業とは思えぬディテールの細やかさや、その単なる積み重ねをはるかに超えたダイナミズム――それは個の集合体である社会が、個の総和以上の力を持つのに似ていた――にみんなが圧倒されてしまい、終わってから五秒ほどの沈黙が流れ、続いて永遠かとも思われるようなスタンディング・オベーションが沸き起こった。守屋がはじめて、サークルの主役を勝ち取った瞬間だった。僕はその裏にあるはずの守屋の努力を思うと涙が出そうで、しかし、もちろんこれが僕の危機であることも認識していた。

 ハイブリッド阿波踊りを、過去のものにしてはならない――

 僕は最高のハイブリッド阿波踊りを開発すべく、DTM作曲講座に通い始めた。やはり既存の曲では、自分の想像力を思いどおりに発揮することができないからだ。クラシックに造詣の深い友だちのレクチャーも受けて、僕は約三か月後、交響曲風Jポップ《TOKUSHIMA》を完成させた。このとき僕はただ自分のためでなく、徳島全土を背負って戦っていることに気づいた。何もない田舎で、阿波踊り阿波踊りと言われるばかりで、あまり好きになれなかった故郷。でも僕は《TOKUSHIMA》を作る過程で、故郷にはすべてがあるのだと感じていた。あの鳴門海峡の渦潮こそが世界に存在しうるあらゆる可能性の子宮口であり、すなわち宇宙や全人類の起源である、つまり世界はまるごと徳島に内包され、徳島によって記述されることで存続しているのだ……そんな壮大なイメージが膨らみ、僕は創世主さながらの心持ちでメロディを生み出していった。

 

 そして勝負の日はやってきた。サークルの新しい役員を決めた後の飲み会で、僕はちょっとしたステージになっているところに上がり、いつも使っている共有のスピーカーをセットし、本藍染めの手ぬぐいを頭にぎゅっと巻いて、ハイブリッド阿波踊り《TOKUSHIMA》バージョンを踊り始めた。その瞬間、僕は音楽と自分との境界が溶解し、身体の隅々にまで繊細な意識が行き届き、ミリ単位で動きをコントロールしている全能感に満たされた。こんなことは今までになかった! 聴衆たちは静かに魅入っていて、カップルたちも指を触れ合うことを忘れている。

 見たか! これが徳島だ!

 そう思ったとき、なんと守屋がステージに飛び上がってきて、僕に挑みかかるように江州音頭レボリューションを繰り出した。僕は「エライヤッチャ、エライヤッチャ」と叫びながらハイブリッド阿波踊りで応戦し、ステージ上でダンスバトルが始まった。《TOKUSHIMA》をバックに、僕と守屋は飛び散る汗を感じながら一小節ごとにお互いを高め合い、終盤に差しかかった頃には――少なくとも僕にはそう思われた、ということだが――ひとりでは到底達しえない境地に至ったという確かな手応えがあった。そのとき、僕は守屋で、守屋は僕だった。ふたりの「彼女いない歴イコール年齢」がひとつに溶け合い、恋の幸せにうつつを抜かす者どもへの爆弾となって光とともに炸裂した。

 曲が終わり、僕と守屋がメンバーたちに背を向けてピタと動きを止めたとき、ハァ、ハァ、と息切れする僕たちの呼吸がよく聞こえた。僕は守屋を見て笑い、守屋は僕を見て笑った。僕が右手を上げると、守屋は意図を理解してハイタッチしてくれた。しかしそのままメンバーの方を振り返ると、僕たちに拍手を送る者は誰一人おらず、みんなムシャムシャとつまみを頬張りながら酒を飲み、カップルたちは冗談を言い合って「やだもォー!」などとイチャこいているのだった。ひっそりとステージを降りた僕たちに、部長だけが声をかけた。

「いや、なげーわ曲!」

 だが、僕は曲の長さが問題なのではないとわかっていた。この恋愛資本主義とも呼ぶべき社会経済システムに踊らされる愚かな大衆どもには、僕と守屋のダンスに自然とこめられた反権威的ユーモアが不快に感じられたのだ。僕は「周りが羨ましいから」彼女を欲しがっていた大衆的自己を、この素晴らしいダンスバトルを通じて克服していた。なあ、守屋? 俺たちは間違ったことはしなかった、つまらない世界に合わせて、自分までつまらなくなる必要はないんだよ……

 僕は喧騒のなかで孤独に焼酎を煽った。隣では守屋が梅酒をチビチビ飲んでいた。僕たちにもはや言葉は必要ないと思った。ふたりを包み込んだ穏やかな沈黙は、しかしほどなく写経の服部に破られた。

「なあ、彼女の友だちで彼氏欲しがってる子がおるんやけど、自分ら紹介とかいらん?」

 ほとんど悟りの境地に達していた僕が「いや、別にええわ」と断るより先に、守屋が「いるいる! 紹介いる!」と今まで聞いたことがないほど大きな声で言った。その直後、思わず「俺も俺も!」と叫んでしまった自分に深く失望したが、頭の中には「同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」の愉快なリズムが、僕を励ますように明るく響いてもいるのだった。

〈了〉

 さがわ・きょういち 1985年生まれ。滋賀県出身。京都大文学部卒。公務員。大学時代に小説を書き始め、2011年に日本文学館出版大賞。受賞作「終わりなき不在」が企画出版され書店に並ぶ。16年、群像新人賞で4次選考の11作に残った。大阪府枚方市在住。34歳。