敗戦から7年、日本の独立回復を祝う式典で、昭和天皇は戦争への後悔と反省を述べようと決心した。しかし、吉田茂首相の反対に遭い「不満だけれども仕方がない」と断念した。

 天皇が「反省」を口にすれば「戦争を始めた責任があると言われる危険がある」との理由だったという。

 初代宮内庁長官、田島道治氏が昭和天皇の肉声を記録した「拝謁記」が公表された。新憲法によって「君主」から「象徴」へと立場が変わり、政治的な発言が封印される中、長官を聞き役に密室で交わされた会話録である。

 「軍も政府も国民も(略)みな反省すれば悪いことがあるから、それらをみな反省して繰り返したくないものだ」。過去に向き合う重要さを訴え、独立回復式典でも「過去の反省と将来の自戒」をどういう文言で表現するか、頭を悩ませていた。

 希望通りに語られていれば、戦後社会の在り方は変わっていただろう。「反省」をうやむやにしたことで、戦争責任問題は昭和天皇を晩年まで悩ませ、上皇さまも払拭に努めざるを得なかった。

 なぜ戦争を始め、なぜもっと早く終わらせなかったのか。終戦から74年が過ぎても、戦後社会のテーマであり続ける。旧憲法下で軍の統帥権を持つ「大元帥」とされた昭和天皇の証言は、他に比べようがないほど重い。「反省と自戒」は、後世に語り継ぐ「遺産」となり得るはずだった。

 拝謁記は、「なぜ」への昭和天皇なりの答えや、示唆に富む逸話、人物評にあふれている。今からでも遅くない。これを糸口に、先人が歩いた「戦争の道」への理解を深め、将来の道しるべにすべきだ。歴史は、未来への教訓として生かすことでしか清算されない。

 昭和天皇の述懐では、戦争に突き進んだ最大の原因は軍部の専横であり、「敗戦に至る禍根のそもそもの発端」は「張作霖事件の裁き方が不徹底であったこと」である。

 1928年、中国の軍閥、張作霖は関東軍参謀河本大作によって列車ごと爆破され死亡。真相はもみ消された。昭和天皇は田中義一首相を叱責し内閣総辞職に至った。

 「考えれば下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣の時に厳罰にすればよかったのだ」と何度も振り返る。下位者が命令に従わず、統制が利かなくなったことに強くこだわっている。二・二六事件(36年)での青年将校への激怒に通じる、決起や暴走への厳しい姿勢である。

 53年には高まる労働運動に驚き、「戦争に至るまでの軍部と私との関係など、国民に今話したいのだが、もちろんそれはできぬことは承知だが、国の前途のため心配だ」と焦燥を募らせる。

 新憲法によって、「歴史の証言者」としての役割も封じられた。戦禍に巻き込まれ、戦後を必死に生きた世代にとっては、残念なことではなかったか。