大橋本家が考案したスケールの大きな「大局将棋」。各陣営の駒は402枚もある(大阪商業大アミューズメント産業研究所蔵)

「本横」と書かれた駒。徳島市上八万町の川西遺跡で出土した

豊臣秀吉が「王将」を「大将」に改めるよう提案した記述がある「お湯殿の上の日記」(東京大史料編纂所蔵)

 将棋の「王将」は「大将」になるかもしれなかった? 将棋に関する県内外の資料を紹介する特別展「王手 将棋の日本史」が19日から11月24日まで、徳島市の徳島城博物館で開かれる。インドから東南アジアを経て平安時代に日本に伝わり、天下人から庶民まで幅広く愛された将棋。現在の形になったのは15~16世紀とみられる。豊臣秀吉が駒の名称変更を朝廷に提案した古文書などをはじめ、肖像画、将棋盤、駒など、歴史、美術史的な資料100点が展示される。国内の将棋関連の資料が一堂に集まるのは初めて。

 最も興味深いのは、豊臣秀吉にまつわる古文書「お湯殿の上の日記 第五七」(東京大史料編纂所蔵)。15~19世紀に朝廷に仕えた女官が書いた職務日誌で、秀吉が1595年、菊亭晴季ら公家3人を通じて「王将」を「大将」と改めるよう朝廷に提案し、天皇が許可したとする内容が書かれている。しかし、記述はそれで終わっており、提案理由や後に名称変更が行われなかった経緯などは分かっていない。

 江戸時代には、大橋本家が徳川家康から将棋界の取りまとめ役に当たる将棋所を任された。その大橋本家が考案した「大局将棋」の復元品(大阪商業大アミューズメント産業研究所蔵)も注目を集めそうだ。縦1・3メートル、横1・1メートルの盤に、各陣営402枚ずつの駒を並べる破格のスケールの将棋だ。

 「熊兵」「森鬼」などオリジナルの駒、ルールがあり、大橋本家が将棋家元の権威を示すため考案したとされる。実際に指すと、勝敗を決するまでに3、4日要するという。

 県内関係の出品では、美馬市脇町出身で明治時代に活躍した12世名人小野五平(1831~1921年)が、三段から七段まで昇段ごとに受け取った免状5枚が並べられる。

 徳島市の中島田遺跡の13世紀の地層から出土した「歩兵」の駒は全国的に見ても古い。駒の裏に「と(金)」の墨書がなく、実際に使われたかどうかは不明だ。この他、徳島市上八万町の鎌倉から室町時代の川西遺跡から出土した駒には「本横」と書かれている。中世にはやった「中将棋」と呼ばれる将棋で使われたとみられる。

 森脇崇文学芸員は「日本の将棋の長い歴史と伝統を知ってもらい、各時代の人々が親しんできた史実を資料を通して想像してほしい」と話している。

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 10月27日午後1時半から記念講演会「将棋の歴史と文化」がある。講師は大阪商業大アミューズメント産業研究所主任研究員の古作登さん。