【第11回】大杉漣さん 告げられなかった思い 

サッカーが大好きだった大杉漣さん。徳島ヴォルティスの応援にも駆け付けた=2005年、鳴門市

2018年2月21日、俳優大杉漣さんが亡くなった。66歳だった。

 4月から新しく始まる新作の担当編集者と食事をしていた最中、友人の映画監督からのメールでその急逝を知らされた。急性心不全だという。絶句。何が起こったのか分からない。編集者は怪訝(けげん)そうな顔で固まったままの僕を見ていた。
大杉さんが無類のサッカー好きだということは、僕のような下っ端の脚本家でも知っていた。仲間たちとサッカーチームを作り、ロケの合間もプレーしていたほど健康だった人が、何故。

 ロケ先のホテルで体調の異変を訴え、共演者やスタッフの方々が病院まで付き添ったという。共演者の中に田口トモロヲさんもいらっしゃったようで、余計に胸が痛む。田口さんとは映画を2本、一緒に作ったことがあり、2人が旧知の仲なのを知っていた。その悲しみを思うとやりきれない。

 大杉さんは下積みが長く、40歳を過ぎた頃、北野武監督に抜擢(ばってき)され、映画「ソナチネ」で花が開いたといわれている。事実には違いないが、それまでもピンク映画や演劇の世界でその実力は認められていた。VシネマやATG映画など、出演した作品の量は計り知れない。俳優は亡くなった後も作品の中で生き続ける。それが救いだという人もいる。

 大杉さんのことを悪く言う人を、僕は見たことがない。ギャラよりも監督の熱意で出演を決めるような人だと、もっぱらの噂(うわさ)だった。遅咲きで挫折を知っている人は、優しさの面積が広い。北野組の常連だったのもうなずける。北野映画に通ずる思想を持った俳優だった。

 先述した田口さんの監督で僕が脚本を書いた「色即ぜねれいしょん」(2009年)という映画に、大杉さんは出演された。ワンシーンだけの小さな役で、友情出演というような趣でもあっただろう。

 その日は偶然、僕も現場に居合わせた。初めてお見かけする大杉さんは、とても大きな背中を持った人で驚いた。

 脚本を担当させていただいた向井康介です。僕も大杉さんと同じ徳島県の出身なんです。そして僕も、大杉さんの芸名の由来となったフォークシンガー高田渡の大ファンでした。(弦楽器奏者・高田漣さんは高田渡の息子)

 そんな挨拶の言葉も考えていたが、神妙に控室で佇(たたず)んでいるので、邪魔をしてはいけないと思い、結局やめた。

 星の数ほどの作品に出演し続けている人だ。いつかまた必ず作品でご一緒できる。そのときにあらためて自分の思いを告げよう。でも、そのときはもう永遠に来ない。

 訃報を知った夜、帰宅して、大杉さんとたったひとつだけ繋(つな)がったその作品を、数年ぶりに見返した。僕の書いた下手な台詞(せりふ)に命を吹き込んでくれる大杉漣さん。

 俳優は、亡くなった後も映画の中で生き続ける。それがこんなに悲しいことだなんて思わなかった。(徳島県三好市出身)=月1回掲載