大石内蔵助と親しかった三尾豁悟の位牌。元興寺で見つかったが、元々は豁悟が建立した藤之堂に祭られていた(同寺文化財研究所提供)

三尾豁悟の位牌が見つかった元興寺=奈良市(同寺文化財研究所提供)

 「忠臣蔵」で知られる赤穂藩家老大石内蔵助が1702(元禄15)年12月14日に吉良上野介邸に討ち入る直前、遺書とも言える手紙を託した徳島藩ゆかりの親類三尾豁悟(1654~1713年)の位牌が、奈良市の元興寺に現存していることが分かった。同寺文化財研究所が確認した。豁悟は内蔵助の生活を物心両面で支援した人物。位牌は、豁悟が内蔵助を供養して過ごした晩年の生活をうかがわせる貴重な資料だ。

 位牌は高さ53・2センチの漆塗りの木製で一部欠けているが、戒名と没年が分かる。豁悟の位牌の他、父母、妻、義兄、息子夫婦、孫夫婦の8柱もある。同寺は幕府から領地をもらい、徳川将軍家代々の位牌も所蔵している。

 豁悟は母方の西坊家が住む滋賀県大津で生まれ育った。徳島藩祖蜂須賀家政のひ孫に当たる。内蔵助は家政の孫の孫という関係。豁悟は内蔵助より5歳年上で、年齢が近かったことから非常に親密だったとみられる。そんなことから内蔵助は討ち入り前日、遺書と討ち入りの決意を示した口上書を豁悟宛てに残した。

 豁悟の位牌は元々、大津にあったお堂「藤之堂」に祭られていた。豁悟が没して約220年後の1935年ごろ、西坊家が藤之堂を解体するのに伴い、元興寺住職の水野圭真に預けられた。

 同文化財研究所の三宅徹誠嘱託研究員は、西坊家が位牌を手放した理由は不明とした上で「水野住職は金龍寺という寺の住職でもあり、西坊家と知り合ったのは、金龍寺の復興のため滋賀に勧進に行った時とみられる。位牌は後に元興寺に移された」と話している。

 昨年、赤穂四十七士に関する特別展を開いた徳島城博物館の根津寿夫館長は、位牌と藤之堂との関係に着目する。豁悟の子孫に伝わる史料から、藤之堂は内蔵助が切腹した7カ月後に建てられている事実が分かる。

 根津館長は、2人の信頼関係は強固で、豁悟が藤之堂を建てた理由の一つは内蔵助の供養のためだと考えている。豁悟は史料に「50歳を迎えて静かな所でひっそり暮らしたい」との内容を書き残しているからだ。

 根津館長は「豁悟は、藤之堂で晩年の10年間を過ごし、内蔵助と親族を弔ったのではないか。豁悟は子孫に内蔵助と共に供養してほしいと望んでいたと思う。藤之堂は無欲な豁悟の人生唯一の強い意志の表現だった」と分析している。

 赤穂四十七士の討ち入り 赤穂藩主浅野内匠頭が1701年3月14日、江戸城松の廊下で、武家の儀式を指導する高家の吉良上野介に恨みを感じて斬り掛かり、即日切腹させられた。赤穂藩は断絶し、大石内蔵助ら元藩士(赤穂浪士)47人が主君の無念を晴らすため、02年12月14日夜から15日明け方、吉良邸に討ち入り、上野介の首を取った。