阪神大震災から25年、追悼会場で並べられた竹灯籠=1月17日早朝、神戸市中央区の東遊園地

 今年も、「この日」を迎えた。毎年そうだが、どこか胸が締め付けられる思いになる。1995年1月17日に発生した阪神大震災から25年がたった。

 当時のことは今でもよく覚えている。入社3年目。徳島市のアパートで1人暮らしをしていた。午前5時46分、経験したことのない大きな揺れで飛び起こされた。慌ててテレビを付けたが、詳しい状況は分からない。本社に電話すると、上司のデスクから「とにかく被害が出てないか、街中を見て回れ」と指示され、走り回った。日の出前の暗闇の中、あてもなくあちこち行った。狭い道に入り込み、新車だった車を擦った。とにかく初めての体験で動揺していた。

 夜が明けると、被害の状況が徐々に明らかになっていく。神戸が大きな被害を受けていたことが分かり、デスクから「阪神フェリーの乗り場に行って乗客の話を聞いてくれ」と言われた。待合室にあったテレビから流れる映像を見て言葉を失った。

 その後は、阪神方面に住む県人関係の情報収集に追われた気がする。気がする、というのは、テレビで繰り返される惨状に圧倒されたためか、あまりの忙殺ぶりだったためか、よく覚えていない。
 それからは連日、県人関係の動向や支援に向かう県内の動きを取材した。徳島新聞からも現地に記者を送り込んだ。交代で派遣していたが、私には最後まで声は掛からなかった。後輩が現地入りを指示された時は、悔しかったのを覚えている。「ここ一番で頼られる記者にならなければ」。そんな思いを強くしたのも、阪神大震災だった。

 阪神大震災から10年を迎えた時、改めて遺族を取材した。小学生だった息子と妻を失った男性は、娘と暮らしていた。娘にとっては弟と母を亡くした。男性は、息子と同じ体形を見た小学生を見ると、つい「頑張れよ」とつぶやくと言った。亡くなった息子は、男性の中では小学生のままだ。娘は看護師になっていた。弟と母の死を目の前にして「何もできなかった自分が、悔しくて情けなかった」ことが理由だった。

 別の女性は、夫を震災で失った。経営していた喫茶店で朝の準備をしていた際、店のあったビルが倒壊し下敷きになった。悲劇はこれだけにとどまらなかった。一時避難所でテレビを見ていたら、無事だった自宅が火事になっている映像が流れていた。女性は言葉を絞り出した。「夫、店、家、大切なものを何もかも失った。写真も焼失し、思い出までも失った」

 遺族はさまざまな思いを抱え、乗り越えていた。その生きる歩みは重く、時折詰まりながら発する言葉は胸に刺さった。ただ取材を断られた遺族も多かった。理由は「そっとしてほしい」だった。

 毎年阪神大震災が近づくと、テレビや新聞では遺族や被災者が取り上げられる。今年もさまざまな人の生きる姿が紹介されていた。その中で、小さな赤ちゃんの写真が目に留まった。30代男性が大切にしている弟の写真。大きなつぶらな瞳が印象的だ。2人の弟は震災当時、3歳と1歳で、2人とも家屋の下敷きになり亡くなった。わずか3年と1年の生涯。記事によると、男性は、当時は現実を受け止められず、友達に「一人っ子」と話したこともあったという。それが、数年前に母校の中学校で震災の体験を話した際、真剣に聴く生徒の姿に心が動き、語り部を始めたそうだ。記事の最後にはこうある。焼け跡で2人の弟ががれきの中から掘り出された光景は、頭から消えない。「震災は忘れたらあかん」。

 私は「1・17」を忘れない。いや、忘れることなどできない。(卓)