鳴門市ドイツ館前の広場にあるベートーベンのブロンズ像(ペーター・クッシェル作)=鳴門市大麻町

現在は博物館になっているベートーベンの生家=ドイツのボン

 今年はベートーベン生誕250周年。「第九」アジア初演の地が鳴門であることから、県内では演奏会や交流の歴史に焦点が当てられる機会は多いが、ベートーベンの人間像についてはあまり触れられてこなかった。人生の苦悩を創作のエネルギーに変えて、歓喜の歌を生み出した偉大な作曲家。ドイツ文学者で放送大学徳島学習センター所長の石川榮作さんに「人間ベートーベン」の人生を随時、つづってもらう。

 ベートーベンの生涯を見渡してみると、まさに苦悩の連続だった。しかし、彼は屈することなく独自の音楽世界を切り開いて、数々の名曲を作り上げた。

 ルートウィヒ・ベートーベンは1770年12月16日、ドイツの都市ボンのライン河畔で生まれた。父はヨハン、母はマリア・マクダレーナ。7人の子供のうち、成人したのは第2子のベートーベンと弟たちの3人だけだった。

 祖父は広い見識と人望を備え、宮廷楽長も務めた優れた音楽家だった。しかし、ベートーベンが3歳の時、脳卒中で亡くなった。ベートーベンは、祖父を大変尊敬していたようで、後に住んだウィーンに肖像画を取り寄せたほどだ。

 これに対し、父は凡庸な宮廷歌手にすぎなかった。息子の音楽的才能に気が付くと、モーツァルトのように神童としてもてはやされることを夢見て、ピアノとバイオリンを教え始めた。

 時には、息子ベートーベンの年齢を偽ってまでも、演奏会で神童ぶりをアピールしようとした。もちろん、父の教え方はいいかげんなものだった。

 ベートーベンにとって真の意味での音楽教育は、宮廷オルガニストのネーフェに師事した時に始まった。その指導によって少年ベートーベンは、めきめきと天才ぶりを発揮して、15歳で宮廷オルガニストに就任するまでになった。

 ベートーベンは17歳の時にウィーンに出掛けてモーツァルトを訪ね、即興演奏によって大いに驚かせた。しかし、この旅行は、母の重体の知らせを受けて、短期間で終わってしまう。ボンに戻って1カ月後、母は肺結核で40歳の若さで亡くなった。

 給料をもらっても無くなるまで飲み歩く父に対し、母は優しく大黒柱だった。貧困の中で必死になって育ち盛りの子供たちを養ってくれた。

 その母を失い、今や全ての責任がベートーベンの肩にのしかかってきた。バイオリン教師のフランツ・リースの支援などもあり、必死に宮廷オルガニストの役目を務め、一家を支えた。

 故郷ボンにいる頃のベートーベンは、父の酒癖のため貧困に苦しむ毎日を送りながらも、母の代役を務めるけなげな少年だった。この苦労も少年ベートーベンの内面的成長に役立ったはずだ。苦労のあるところに道は必ず開けてくるものだ。

 いしかわ・えいさく 1951年、高知県生まれ。福岡大人文学部卒、九州大大学院文学研究科修士課程修了。文学博士。専門はドイツ中世文学とワーグナー。徳島大名誉教授。2018年から放送大学徳島学習センター所長。著書に「『ニーベルンゲンの歌』を読む」「トリスタン伝説とワーグナー」「板東俘虜収容所『第九』百年の国際交流」など。68歳。

 ルートウィヒ・ベートーベン 1770年、ドイツのボンで生まれた。世界的作曲家。幼い頃からピアノとバイオリンを習い、シラーの詩「歓喜に寄せて」の影響を受けて1824年、交響曲「第九」を完成させた。交響曲は「運命」「田園」など全9曲。「月光」「テンペスト」「エリーゼのために」など親しまれたピアノ曲も多い。27年3月にオーストリアのウィーンで没した。56歳。