鳴門の歴史を彩るさまざまな出来事の舞台となった鳴門市民会館=鳴門市撫養町

 1961年、塩田が広がっていた鳴門市撫養町にガラス張りのモダンな建物が立ち現れた。「鳴門市民会館」。四角いガラス窓が並んだシャープな外観と深いブルーのパネルが印象的なこの集会所兼スポーツセンターは、式典からスポーツ大会まで多種多様な行事の開催場所となってきた。しかし、竣工(しゅんこう)から60年の節目を迎えることなく、今年10月に市の庁舎建て替え計画に伴って解体される予定だ。オーバーブリッジで結ばれた市庁舎と共に、建築家増田友也(1914~81年)の初期の名作と称される。惜しむ声も聞こえる中、価値を後世に伝えるため記録に取り組む動きがある。

〈市民の強い希望と協力で開館〉

鳴門市民会館でのローラースケート大会=1962年(鳴門市提供)

 市民会館は、鳴門の歴史を彩るさまざまな出来事の舞台となってきた。62年には四国と本州を結ぶ架橋のルート争いが激化する中、池田勇人首相(1899~1965年)が訪れて「鳴門コースが最有力」と約束した。ローラースケートブームを受け、62年から64年までは主にスケート場として使われた。

 高校の運動部や民謡の練習場になったほか、成人式や物産展も開かれた。毎年6月、鳴門で開かれる第九演奏会では、合唱団の交流会場となる。近年は年間計1万~2万人が利用している。

 鳴門市史によると、その開館は「市民の強い希望と協力」によるものだった。財政難を背景に「道路整備などが先」と反対論もあったものの、当時の谷光次市長(1907~2002年)は「市民文化の振興も必要と、あえて建設に踏み切った」とある。工費は5537万円で、うち4900万円が厚生年金保険の還元融資。内部設備を整備するため、市内外の有志、関係会社の寄付金を集めた。

 「とにかく安価に」との要請に応え、増田が選んだスタイルが鉄骨造り。建物の三方にはガラス窓が配され、内部は自然光があふれる。波打つようなリズムのある天井も印象的だ。

〈2階から入ると館内全体が目に入る演出効果〉

 「正面玄関は2階。入ると館内全体がぱっと目に飛び込んでくる。そして階段を下りて座席に着く。この演出効果は何とも言えないんですよ。自分の成人式や家族の日本舞踊の発表会。思い出はいろいろです」。近くの商店街「大道銀天街」で化粧品店を営む立本利博さん(70)は感慨に浸る。増田が手掛けた建築の保存・顕彰活動に取り組む市民グループ「未来の鳴門を考える市民会」の代表を務める。

 立本さんは解体を惜しむ。「50年の歴史は50年かけないとつくれない。街の外から来た人を案内するのがショッピングモールでは味気ない。歴史あるものを次の世代に残すことは大切です」
時間の経過は歴史をつくる。しかし、同時に、忘却や劣化も生む。市民会館では設計者の思いはいつしか忘れられ、1階の入り口が常用されていく。設備更新や改修が十分にされず、「エアコンがなく夏は暑すぎる」など市民から苦言が出るようになった。

 昨年度、新市庁舎の整備を検討するため鳴門市が設置した有識者会議(委員長・田中弘之鳴門教育大副学長)は、現市庁舎と市民会館を解体し、現地で建て替える案を結論とした。これを受け、鳴門市は市庁舎に先立ち、市民会館を解体する。

〈過去の情報を整理、発信することで記憶をつなぐ〉

 「市民会館は椅子のデザインから階段の傾斜の付け方まですごく工夫されている。そこでの人の営みがすごくいい感じに見える。地元の人にとっては当たり前なのかもしれないけど」。市民会館の昔の写真を見ながらそう話すのは、橋本敏和さん(37)=徳島市。市民会館をはじめ、鳴門市に19残る増田による建築物、いわゆる「増田建築」のデジタルアーカイブ化を手掛けている。市民会のメンバーでもある。

 橋本さんは面白い経歴の持ち主だ。出身は東京都目黒区。日本大学芸術学部で映像制作を学んだ後、図書館司書などを経て、2016年に徳島県神山町にあるIT企業「えんがわオフィス」に就職した。「生まれも育ちも東京で、東京中心の考え方しかできなかった。だから地方に行ってみたいと思った」と言う。

 18年に同僚と独立し、映像アーカイブを手掛ける「神山アーカイブレコード」を設立している。

 増田建築を知ったのは、17年にえんがわオフィスの仕事で、県内の観光地などの調査をしている際。鳴門の増田建築の存在を知り、後世に伝えたいとアーカイブ化を思い立った。

 活動の根底にあるのは危機感だ。「解体から50年後、その場でどんな暮らしがあったのか、誰も覚えてないんじゃないかと思う」。地方では、人口減に伴う「縮小時代」を迎え、財政難や担い手不足で多くの文化-建築だけでなく、伝統芸能や手仕事なども-が失われようとしている。「過去の情報を整理し、発信していくことで記憶をつなぐことができると思うんです」

〈愛された建築が街の魅力になる〉

オーバーブリッジで結ばれた鳴門市民会館(手前)と鳴門市役所本庁舎

 とはいえ、写真や映像で再現できるのはごく一部であるのもまた事実だ。京都大で増田に師事した平野祐一さん(66)=高松市、設計事務所代表=は「建築は内部空間に身を置いてこそ。実物をいかに次世代に残すかを考えていかないといけない」と話す。

 増田友也の建築作品など、鉄とガラスとコンクリートを材料にした20世紀の建築は「モダニズム建築」と呼ばれる。一見、ありふれた建物のように見えることもあり、その価値は広く浸透しておらず、全国で名作が解体されている。

 経済のグローバル化とインターネットの普及で、世界規模で都市の均質化が進む。そんな中で、「ワンアンドオンリー」の街をつくるのは、そこで積み重ねられた歴史、生まれた文化だ。街の「顔」となる建築は、その大きな要素となる。

 平野さんは言う。「建物が現存しているときから図面などの資料や建設に関わった人たちの証言、使った人たちの思い出を集め、発信していく活動はとても大切です。地元の人にどれだけ愛されたかが、建物の保存か解体かを決める大きな要素になるから」。(木下真寿美)

<鳴門市民会館アーカイブ>

 橋本さんが収集した市民会館など増田建築の写真は〈https://www.flickr.com/photos/masuda_archive/〉で閲覧できる。市民会館のVR映像は〈https://mirainonaruto.org/​〉。

 増田 友也(ますだ・ともや) 1914年、兵庫県三原郡八木村(現南あわじ市)生まれ。39年に京都帝大建築学科を卒業し、満州炭鉱工業会社に就職して戦中期を大陸で過ごす。50年から78年まで、京大建築学科で講師、助教授、教授を歴任。78年に京大名誉教授となり、80年から81年には福山大で教授を務めた。
 ハイデッガーの思想に依拠した建築論を展開するなど、「建築とは何か」について思索を深めたことでも知られる。81年、食道がんで死去。享年66。鳴門市内や京都府内を中心に、61の建築をつくった。