望むものが全て手に入る。それが幸せなことなのか。幸せだろ、何か問題でも? しかし、そう考えた先人は少ない。太っていく豚が果たして幸福か、なんてことを言うのである。ハムになるのが早まるだけではないか、と。

 誰が残したか覚えてはいないが、確かこんな名言もあった。「幸運は偉大な教師である。不運はそれ以上に偉大な教師である」。逆境に立ち向かった、この人の引退の報に接して思いだした。

 奈良在住の岡田侑子さん、29歳。関西中心に「左手のピアニスト」として演奏を続けてきた女性である。先日、最後のコンサートが地元で開かれた

 4歳から練習に打ち込んできた。右手に変調を来すようになり、2011年、神経疾患「局所性ジストニア」と診断された。ここでピアノを諦めるのが普通だが、彼女は違った。

 片手の自由を失ったピアニストの演奏を聴いたのをきっかけに、左手だけで表現できる音色があることを知った。指先からしたたる調べを表現せずにはいられない。それが音楽家というものらしい。リハビリに打ち込み、16年にプロデビュー。

 左手にも症状が出て、演奏の第一線から身を引くことになったけれど、「やりきれたと思う」と、笑顔で感想を語った。不運を不運として諦めてしまっていたら、決して見えなかった風景を、彼女は見たのだろう。