この話を強く認識したのは、美馬支局に赴任していた頃だから、もう15年ほど前になる。太平洋戦争末期の1945年1月、大阪市から貞光町(現つるぎ町)に疎開していた児童16人が火災に遭って亡くなった。翌年には地域住民が16人を慰霊する「十六地蔵」を建立し、「戦争が生んだ悲劇」として語り継がれている。支局時代には、その歩みをまとめた記事を書いた。2007年2月に掲載され、こう結んでいる。
戦争を知らない世代が増え、語り継がれる機会も減った。「十六地蔵」の悲劇も、当時を知る人たちは少なくなった。しかし、決して忘れ去られることはないだろう。十六地蔵がそこに建ち、思いを寄せる人たちがいる限り-。
あれから13年。火災発生から75年がたった今年も、命日の1月29日はつるぎ町貞光で法要が営まれた。2006年から始まった貞光小学校と、亡くなった児童が在籍していた南恩加島小学校(大阪市大正区)の交流も途絶えることなく続いていた。昨年12月には、徳島大の留学生らが題材にした創作劇を上演した。平和を願う思いは、次代へ、世界へとつながっていた。
この悲劇は、児童書やアニメ映画、絵本などになっている。幼い子どもたちの命が突然奪われた悲惨さはもちろんだが、戦後の厳しい生活の中、寄付を出し合って十六地蔵を建立した地域住民の姿が、多くの人たちの心を揺さぶったのかもしれない。
かつて十六地蔵供養会の会長を長年務めた男性はこう語っていた。「いろいろな人が守り続けてきたのは、わざわざ大阪から来てくれたのに火事に遭い、申し訳ないという気持ちと、決して忘れてはならない、二度と悲劇は繰り返してはならない、という思いからでしょうか」
こうした貞光の人たちの活動は、南恩加島小児童たちの心を動かした。2002年、「貞光の人たちが先輩たちを供養し続けてくれているのに、大阪に何もないのはおかしい」と立ち上がり、校庭への慰霊モニュメントの建立を計画。寄付を呼び掛け、03年に完成した。命日には、慰霊の全校集会が開かれ、モニュメントの鐘が鳴らされている。
さらに続きがある。一連の動きに、児童文学作家の原田一美さん(故人)が感動した。それまでに児童書「十六地蔵物語」を出版していた原田さんは、再びペンを執り、05年、続編「おかしいやんか」を執筆した。原田さんは生前、本にした思いについて「戦争を体験した一人として、あまりの悲劇に、二度と繰り返してはならないということを伝えたかった。それと、慰霊を続ける地域の人柄、土地柄に心を打たれた。そうした思いが、大阪の子供たちにも伝わった。人を思う気持ちの大切さを教えてくれる」と話していた。
今年1月29日、久しぶりに法要に参列した。以前と変わらず、子どもたちが千羽鶴を供え、一人一人が静かに焼香して手を合わせた。2月4日には、南恩加島小学校を訪ねた。校庭にはモニュメントがたたずみ、校舎内には被害に遭った16人の写真が掲げられていた。
児童書やアニメ映画では、疎開先で南恩加島小学校と地元の貞光小学校の子どもたちが遊ぶ場面が描かれている。長年の時を経て両校の児童は毎年、相互訪問して交流している。子どもたちの笑顔を二度と奪ってはならない。これからも十六地蔵は、静かに、優しく、見守り続ける。(卓)