「酔っばらい防止法」成立を喜ぶ関係議員。市川房枝(左から3番目)が隣にいる紅露みつの手を取る=国会議事堂内、1961年(衆議院憲政記念館所蔵)
国会の議場に初めて女性が入った日。本会議を終えて議場から出てくる紅露みつ(左端)=1946年、国会議事堂(衆議院憲政記念館所蔵)

 2019年、私たちは「平成」に別れを告げ、新しい年号と出合う。時代の転換期だ。「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業を前提としたさまざまな慣習、制度が行き詰まりを見せる中、春には統一地方選、夏には参院選がある。女性議員の割合が世界最低レベルの日本。選挙権とは。女性が議会にいる意味とは。やはり時代の転換期だった終戦直後の73年前、女性が初めて参政権を得た衆院選で、女性代議士1号となった阿波女の足跡をたどり、考えた。

 「戦争のない世界を」。戦後の混乱が続く1946年4月の衆院選で、そう訴える一人の女性が徳島全県区から立候補した。選挙ポスターに書かれた名前は「紅露みつ」。「みつ」の部分は別紙に書かれ、ポスターに貼り付けられている。それをはがすと出てくるのは「昭」という字。夫の名前だ。

 夫の紅露昭は、阿南市桑野町の出身。32年から45年まで衆院議員を務めた。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)による公職追放により、立候補を禁じられる。彼の「身代わり」として立候補したのが紅露みつだった。ポスターの修正は、追放が選挙直前だったことを物語る。それでも、夫の選挙運動の応援歴も長かったため、演説は堂々としたものだったそうだ。

 「紅露さんは人の心に染みる話し方をするんです」。70年代、第1号の女性議員たちにインタビューし、書籍「新しき明日(あす)の来るを信ず」(NHK出版)にまとめた歴史ジャーナリストの岩尾光代(72)=東京都=は言う。

 紅露みつは1893年、群馬県坂本町に生まれる。東京で雑誌社の記者として働き、弁護士だった昭と結婚。終戦間際に、一人息子を広島の原爆で亡くした。立候補時は52歳。「もう一応は人生を送ってきた、余生は平和のためにつくしたいと考えたのです」。引退後、市川房枝との対談で当時の心境をそう語っている。

女性39人当選 背景に連記制

 「軽んぜられたる婦人に」(1946年2月5日付社説)「台所と直結した議会へ」(同2月7日付連載)―。衆院選を間近に控えた時期の徳島新聞をめくると、女性に政治参加を呼び掛ける記事がたくさん載っている。GHQは女性の参政権、つまり平和を望む女性の声が社会に反映されることを、日本の非軍事化の柱のひとつと考え、積極的な啓発活動を展開した。

 その恩恵もあってか、定員5人に対し30人が立候補した徳島全県区で、紅露は5万1159票を獲得し、3位で当選。1位は三木武夫で6万7300票だった。全国では79人の女性が立候補し、約半数の39人が国政に送り出された。当時、世界的にも誇れる女性議員の数だった。

 投票日から3日後、徳島新聞は1面トップでこの躍進を「婦人議員続出は異例」との見出しで伝え、その要因に、この選挙で採用された「連記制」を挙げている。複数の候補者に投票できる制度だ。「一人は女性を書いておこう」という心理が働いたというのだ。

 現在、女性議員を増やすため、多くの国が一定の議席や立候補者を女性に割り当てるクオータ制を取り入れているが、46年衆院選での女性議員の躍進は「連記制」のもつ可能性を示唆する。

 投票する側、される側に思いもあった。「みんなファーストペンギンですよ。『はい、私出ます』と手を挙げる。これは大変なこと」。岩尾は言う。目の前には焼け野原が広がり、食べ物もない。「なんとかしないといけない現実が、そこにあったんですよね。そして投票する側にも、やっと社会の一員になれるという、ときめきがあった」

 男女平等を定めた新憲法の公布を経て実施された翌47年の衆院選で採用されたのは、中選挙区単記制。女性議員は15人と半減した。紅露の獲得票は1万2699と3万8000余り減り、落選した。

 4カ月後、参院選徳島地方区の補欠選に出馬。定員1人に3人が立ち、2位に705票差で当選した。県内の投票率は27%と、何とも世間の関心が低い選挙。連続4期を務めることになる参院議員としての出発点だった。

売春防止法で「紅露落とせ」

 女性が議会に入ると、何が変わるのか。女性の視点が政策に反映される、というのが答えのひとつだ。

 紅露はドメスティックバイオレンス(DV)にストップをかけ、女性を性の対象として消費する世に反対した先駆者の1人。酔っぱらい防止法(61年)、売春防止法(56年)の成立に尽力している。

 売春防止法については、主に男性、業者からの逆風も強かった。ある地区では選挙時に「紅露みつを落とせ」という指令が広がり、街頭演説の聴衆が誰もいないこともあったという。

 ほかの女性議員たちと連帯し、それでも成立にこぎ着けた。

 50年代、60年代に東京で政治記者をしていた元徳島新聞社東京支社長の谷田匡(88)=東京都=は、よく議員会館の紅露の部屋に立ち寄ったという。市川房枝と鉢合わせることも多かった。

 「紅露さんの隣の部屋にいたのが市川さんで、2人でよくお茶を飲んでましたよ。紅露さんは保守系でいつも着物姿。市川さんは革新系で洋服。全く違う2人でしたけれど」

「男だったら」言われぬよう

 女性政策を進める一方、女性であるが故のプレッシャーも感じていた。「男を出しておけばこんなことはなかったのに―と選挙区から思われてはかなわない」。この気持ちがずっと頭から離れなかったと後年、語っている。地元からの陳情は何でも受けた。

 かつて紅露昭の実家があった阿南市桑野町を歩いた。夫妻をよく知る人はほとんどいなくなっていたが、元高校地学教師の東明(しのあき)省三(86)が「台風になると逆流していた桑野川の治水事業は、おみつさんの功績」と教えてくれた。

 「米軍が小松島港を基地にしようとしたのを食い止めた」との記述が複数の書物にあった。元小松島市長の西川政善(76)=徳島文理大教授、小松島市=に尋ねると、「自民党の青年部幹事長をしていた30歳前後の頃、そんな話を紅露さんから聞いたことがある」と返ってきた。「あなた小松島だね、こんな話知ってるかい」と計画について話し、「私は反対したのよ」と胸を張ったという。

 果たして紅露が米軍基地化をストップしたのか。公式の記録は見付けられなかった。

志を受け継ぐ 徳島の露光会

 ファーストペンギンに続くペンギンたちも生まれた。紅露の引退後に徳島の女性たちで結成された「露光会」。生活改善グループの活動をしていた樫原照子(77)=徳島市=は、30代の頃、この集まりに通い始めた。「ずいぶん先輩達ばかりに交じってましたが、耳にする意見は新鮮でした」

 4歳で終戦を迎え、小学生のときに病気で父を亡くしてからは、女ばかりの一家で農業をやってきた。平成に入った90年、徳島県農業会議で、初めての女性常任会議員になった。「女は要求ばかりで責任とらん」と言われたことがあったから、「何でも声が掛かったら受けるようにしてるんです」。後の人のためにも、と付け加えた。

 「私はここ(国会)で知り得たことを、みんな徳島に運んでいきました。だから徳島は後進県だけれど、婦人に関する限りは後進県ではありません」。岩尾のインタビューに、紅露はこう語っている。

 紅露の他界から16年たった96年、徳島県議会は全国都道府県議会で初めて夫婦別姓に反対する意見書を可決。男女平等に逆行する、いわゆる「バックラッシュ」が2000年代にかけて全国で広がり、女性の地位向上に向けた動きは滞ったまま、現在に至る。

 徳島県内の女性有権者数は33万7236人。男性より3万4821人多い(昨年12月3日現在)。(文中敬称略)

 こうろ・みつ 1893年、群馬県生まれ。1946年の衆院選徳島全県区で当選。47年の衆院選では落選したが、同年の参院徳島地区補欠選で当選し、68年に引退するまで連続4期務める。初出馬時は無所属。その後、民主党などを経て自民党。参院在外同胞引揚特別委員長や厚生政務次官などを務めた。80年、すい臓がんで死去。享年87。

編集後記

 紅露みつについて本に書いたことのある元阿南市議の仁木一郎さんに「紅露さんのことを教えてほしい」と電話をしたら、会社まで来てくれた。ミーティングスペースで話を聞いていると、妻の惠子(やすこ)さんがやって来た。「夫を送ってきて車の中で待ってたんだけど、紅露さんのことなら私も話したいと思って」

 惠子さんは77歳で阿南市生まれ。子どものときに白い割烹着姿の女性たちが紅露のところに行っていたのを覚えている。でも、それは写真で見たのか、現実だったのか分からない。言ってしまえばそれぐらいの関わりしかないのだけど、紅露について熱心に語る。今は歴史に埋もれてしまいつつあるが、女性にとって、やはり紅露は大きな存在だったのだと思った。

 90年代、惠子さんは阿南市教委が県内他市に先駆けて設置した女性対策係のただ一人の職員となった。「最初、男性には税金泥棒だなんて言われましたよ」と笑う。ほかにも紅露に続いた女性はたくさんいるのだろう。

 女性議員と男性議員では、注力する分野が異なる。それはさまざまな調査が示す。新しい時代をつくるには、女性有権者に支持される女性議員が必要だ。