阪急監督として2年連続日本一となり、古里の宍喰町(現海陽町)をパレードする上田さん(左)=1976年12月18日

 「徳島が誇る名将だった」「妥協しない姿勢を学んだ」。プロ野球阪急(現オリックス)を率いて3年連続日本一に輝き、徳島県出身者で唯一、野球殿堂入りを果たした上田利治さん(80)の訃報が明らかになった2日、県内在住の元プロ選手や親族らは思い出を振り返りながら、その偉業をたたえた。上田さんは第一線を退いた後も古里・徳島の発展に協力してきただけに、死を悼む声が相次いだ。

 投手としてプロ野球広島、阪急で活躍した白石静生さん(73)=徳島市八万町橋本、会社員=は上田さんには広島コーチ、阪急監督時代に計10年間、指導を受けた。「阪急時代のキャンプは本当に厳しかった。チームには一流選手がたくさんいるのに妥協しない。基本の積み重ねを大切にすることを教わった」

 最も思い出に残るのが、4年連続日本一を懸けた1978年のヤクルトとの日本シリーズ。シーズンわずか3勝だった白石さんは、2勝3敗で迎えた第6戦で先発し、完投勝利を収めた。「なぜ自分が起用されたか分からないが、意気に感じて投げた」と懐かしむ。

 上田さんが本塁打の判定を巡り、1時間19分の抗議を行った第7戦も印象深い。このとき上田さんは途中で切り上げようとしたが、選手の怒りが収まらないのを見て、抗議を続けたという。ベンチにいた白石さんは「選手の気持ちを第一に考えたのだろう」と恩師の情の深さを推し量る。

 訃報は報道で知り「徳島を代表する野球人が亡くなり、一つの時代が終わった気がする」と声を落とした。

 出身地の海陽町でも悼む声が上がった。上田さんの妹の吉中香さん(73)=同町久保=は「今も多くの野球ファンに愛され、本当に尊敬できる兄です」。いとこの重田芳美さん(84)=同町日比原=も「5年ほど前に体調を崩すまでは、毎年お盆に墓参りで帰省していた。地元を大切にする人だった」と振り返った。

 「地元の誇りだったのに残念」と言葉少なに語るのは、海南高校(現海部高校)野球部で捕手の上田さんとバッテリーを組んだ1学年下の谷口良一さん(80)=同町久保、会社経営。「知将の名の通り、高校時代から研究熱心だった。安心してサイン通り投げられた」と偉大な先輩への思いを口にした。

 上田さんのユニホームやパネルなどを展示する同町久保の「道の駅宍喰温泉」には、大勢の野球ファンが訪れた。ユニホームの写真を撮ったり、興味深そうに展示物を眺めたりしていた。

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 告別式は6日

 プロ野球日本ハムは2日、宍喰町(現海陽町)出身で、元監督の上田利治さんが亡くなったのは1日午前2時55分で、肺炎のため、川崎市内の病院で死去したと発表した。

 葬儀・告別式は6日午前10時から横浜市青葉区美しが丘2の21の4、公益社会館たまプラーザで。喪主は妻勝子(かつこ)さん。

 1970年代に阪急(現オリックス)の黄金期を築くなど、阪急、オリックス、日本ハムの監督として通算20年間で、歴代7位の1322勝(1136敗116分け)を挙げた上田さんは2003年に徳島県民栄誉賞を受賞し、04年から08年まで県教育委員を務めた。