サトウキビ畑の前に立つ石碑。明治中期、徳島から渡った入植者が建立した=沖縄県石垣市名蔵

中川虎之助

 南国の心地よい風がサトウキビ畑を渡ると、緑の穂が波のように大きくうねった。徳島から約1500キロ離れた沖縄県石垣市の名蔵地区。畑の脇に「地神宮」と刻まれた石碑がある。側面には「明治三十七年甲辰八月吉日」の文字。今から116年前に建てられたものだ。

 徳島県内でも「地神」をまつる風習がある。石垣と違い、「じじん」と読む。田んぼの一角や神社境内でよく見掛ける五角形の石柱は、この「地神さん」などと呼ばれた徳島独特の信仰にちなむ。農民らが五穀豊穣などを祈ってきた。

 名蔵の石碑を建立したのは明治中期、徳島から石垣島に渡った人たちだった。

 阿波和三盆糖の産地で知られる上板町出身の製糖家、中川虎之助(1859~1926年)。1890年代初め、徳島や全国各地の農民ら約300人を引き連れ、この地を耕した。明治に入り、安価な輸入糖が国内の砂糖を押しやる中、石垣をサトウキビの大産地にしようともくろんだ。

 洋式農具を使った大規模農業や近代製糖を初めて持ち込み、島の農業に与えた影響は大きかった。しかし、マラリアや台風被害で事業は挫折。虎之助は1901年に台湾に移って製糖所を開いた後に代議士となり、国内の製糖業の振興に情熱を傾けた。大正期には大鳴門橋の建設を提唱するなど、時代の先を見据えて活躍する。

 一方、虎之助と共に徳島から渡った人たちはどうなったのか。入植者の中には農家の次男や三男が多く、郷里に戻れず島で商売を始める人もいた。名蔵地区の「地神宮」は、虎之助が去った後に建てられた。「先行きが見えない不安の中、古里の信仰に心の平穏を求めたのでしょう」。徳島県立文書館の金原祐樹さん(55)は、碑を建てた県人たちの気持ちを推し量る。

 虎之助らの入植から100年以上たった2000年10月、上板町と石垣市は砂糖の歴史を縁に「ゆかりのまち」提携を結んだ。今も交流は続くが、徳島と石垣を巡る歴史を詳しく知る人は県内でも少ない。

 提携20年の節目に史実を調べ始めた。虎之助が歩んだ道の傍らには、暮らしの変化を強いられた島民の姿や、島に残った徳島出身の家族の物語があった。

 「ゆかりのまち」提携を仲介したのは、太平洋戦争中、石垣に配属された徳島の元陸軍兵士だった。マラリアで多くの仲間を失った元兵士らが戦後、夏が来る度に慰霊で石垣を訪れていたことが、虎之助に光を当てるきっかけになった。戦後75年。石垣の戦争の歴史にも目を向けたい。

 上板と石垣のサトウキビ畑に刻まれた記憶を巡る旅。まずその始まりに、虎之助の足跡と彼が生きた時代をたどる。