石垣島製糖に運ばれ、山積みにされたサトウキビを指さす多宇さん=沖縄県石垣市名蔵

石垣島製糖に運ばれ、山積みにされたサトウキビを指さす多宇さん=沖縄県石垣市名蔵

 製糖工場にシラサギが舞うと、石垣島の人たちはサトウキビの収穫の季節を実感するという。

 「刈り取ったサトウキビに紛れた虫を餌にしようと、鳥が群がってくるんですよ」。島で唯一の製糖会社、石垣島製糖で農務部長を務める多宇弘充さん(66)は、山積みになったサトウキビを指さす。

 約1300ヘクタールの畑から刈り取られた島のサトウキビは、名蔵地区にある工場に運ばれて来る。冬から春にかけての収穫時期には施設内に甘い香りが漂う。

 製糖業は石垣島を支える基幹産業だ。今から120年余り前、名蔵の原野をサトウキビの産地に変えたのが、上板町出身の製糖家、中川虎之助だった。

 戦後に生まれた石垣島製糖と虎之助に直接の関わりはない。しかし、同社出版の「八重山糖業史」(1993年刊)には虎之助について詳しく書かれている。多宇さんは「石垣の製糖業の先駆者であることは間違いない」と言う。

 「八重山糖業史」によると、虎之助が徳島県上板町の農民14人を率いて名蔵を耕し始めたのは1892(明治25)年。本土からの入植者300人余りと地元住民約500人を雇って、7年間で170ヘクタール近くのサトウキビ畑を作った。

 大きな台風被害に遭って数年で操業を諦めたものの、石垣初の近代式工場を建てたのも虎之助だった。

 沖縄と言えば、サトウキビのイメージが強い。製糖業は琉球王国時代の1623年に始まっている。だが、石垣島を含む八重山諸島での栽培の歴史はそれほど長くない。供給過多による価格の低下や、他の作物の自給が少なくなるのを避けるため、「甘蔗作付制限・禁止令」でサトウキビ栽培が禁じられていた。

 1879年に沖縄県が置かれてようやく禁令が解かれ、実際に撤廃されるまでさらに9年を要した。

 ところが、虎之助は1882年春、既に石垣でサトウキビの大量栽培が可能かどうか視察に訪れている。徳島から船で片道1週間もかかる時代。当時23歳の虎之助は、両親を心配させないように「砂糖の商用でしばらく神戸に行く」と言って単身海を渡った。

 「その行動力には驚かされる。よほどスケールの大きい人物だったのでしょう」と多宇さん。民俗学者の宮本常一も著書「南の島を開拓した人々」(1968年刊)で、虎之助の名前を挙げてこう評している。

 「大きな志をもち、(中略)自分の考えていることを思いきり実行しようと思って南の島にむかっていった、はじめの人たちです」。