シベリア抑留中の強制労働などを振り返る松村廣保さん=阿波市市場町の自宅

 幾多の惨禍を生んだ太平洋戦争が終結して、今年で75年になる。戦争を直接知る国民は年々、少なくなってきたが、それは遠い過去の出来事ではない。東南アジアの密林に、中国大陸に、太平洋の海や島に、数多くの徳島県出身者が、古里の父母や妻子に思いを残して倒れていった。その無念さを知る元兵士らは今も県内に健在だ。昭和から平成、令和、そして未来へ。平和の願いを込めて、過酷な戦争体験を書き残す。

 終戦後、京都府の舞鶴港には、シベリアなど各地の復員兵らを乗せた引き揚げ船が入港した。帰らぬ息子を待ち続ける母の心情を歌った「岸壁の母」の舞台としても知られる。

 1949(昭和24)年秋、引き揚げ船上に、舞鶴の風景を見て涙を流す阿波市市場町出身の復員兵、松村廣保さん(96)=当時(25)=の姿があった。山々の緑が目に染みる。「日本はこんなにきれいな国なのかと、つくづく思った。港に日の丸が何本も揺れて、船の上でみんな泣いていた」

 シベリア抑留生活は4年余りに及んだ。厳寒の地で夢見た祖国の土は目前だ。

 市場町の農家に生まれた松村さんは、旧八幡尋常高等小学校(現八幡小)を卒業後、満蒙開拓青少年義勇軍に志願。茨城県の義勇軍の訓練所で軍事訓練などを受けて38年6月、14歳で旧満州(中国東北部)に渡った。「小学校で義勇軍の募集を知った。9人兄弟の五男なんで『満州に行く』と言うと、親が『おお行け』と」。現在、96歳の松村さんは市場町の自宅で、80年余り前をそう振り返る。

 現地で、大豆やコーリャンを作りながら、鉄道の警備に当たった。44年6月、ハルビン市から北東に位置する佳木斯(ジャムス)で徴兵検査を受け、満州441部隊に入隊。ソ連のハバロフスクに近い国境の警備に就いた。「冬はオオカミが多く、警備兵も小屋から外に出られないが、敵も来ない」という辺境の地だ。

 その後、転属し、佳木斯に近い鶴岡で8月15日を迎えた。だが、満州に侵攻してきたソ連軍と日本軍の戦闘は終戦になっても、散発的に続いていた。集合地の方正県を目指す松村さんらも行軍途中、依蘭の町で、大河・松花江を上って来たソ連艦船の砲撃を受けた。

 松村さんは擲弾筒で応戦した。発射した直後、左手に激痛が走った。銃弾が当たったのか、親指が血まみれになっている。

 松村さんらは必死に逃げた。ソ連軍の追撃をかわすために山を縫って野営し、方正県にたどり着いた。

 「そこにソ連軍と、既に武装解除した日本軍の先発隊がいた。自分たちも武装解除して、くつろいだ」

 捕虜たちを待っていたのは、いつ果てるともしれない収容所での厳しい強制労働だった。

 対岸に樺太を望む港町の山林収容所に送られた松村さんは大工仕事を志願し、丸太を加工して、建具などを作った。「朝夕は小さい黒パンが1個ずつ。昼は飯ごうのふたに半分ほどのパン粉のおかいさん。親日派の将校がいて、海でコンブをとったり、魚を釣ったりできたので食料の足しにはなった」と話す。

 それから沿海地方のナホトカ周辺の農場や製材所などの収容所を転々としながら、思うのは日本のことばかり。「毎年正月には仲間で雑煮を食べるまねをして『うまかったなあ』と言い合った。ある収容所では、共産主義を教える日本兵に『お前ら共産主義の勉強の一つもしとらんのか』とつるし上げられた。毎晩、共産主義教育を受けたが、私は聞く格好だけ」と語る。

 「父や母が待つ徳島に帰りたい」。その一念で、松村さんは収容所生活を耐え抜いた。ついに帰国が許され、ナホトカ港から引き揚げ船に乗った。

 舞鶴港の土を踏んだ松村さんは、岡山、高松回りで、実家に帰った。軍隊に入る前、両親に元気な顔を見せようと、一時帰省した44年2月以来の親子の対面だ。「言葉は出んかった。父も母も『ようもんてきたのう』と言って泣いた」

 折しも実家は新築中で、松村さんは収容所で習い覚えた技術を生かして内装を手掛けた。2級建築士の資格を取得して工務店を設立し、入り母屋造りなどの住宅を設計、施工。自宅を含め107棟を建てた。左手親指のハンディに負けず、磨いた腕を頼りに2人の娘を育て上げ、2人の孫と3人のひ孫に恵まれた。

 平和な戦後を生きながら、10年ほど前まで時折、依蘭での戦闘の夢を見た。戦争の傷は心に深い。「多くの人生が、希望が、戦争によって失われた。戦争は絶対反対です」。その言葉は力強く、平和への願いに満ちていた。