文体とは、その人の体臭だ、と前回話した。こってりとした悪臭も無味無臭も、好きな読者は必ずいる。

 ところで文体を辞書で引くと「その作者が素材を形象化するのに用いた表現法」(新明解国語辞典)とある。

 これはこう解釈できる。文字のつづられ方だけが文体のことではない、と。

 冒頭からここまでを、「文体」を変えて表現してみる。

 異性の体臭に惹かれるのはよくあること。こってりとした臭いや、無味無臭が好きという人がいるように、小説の文体にもさまざまな好みがある。

 文体とは「その作者が素材を形象化するのに用いた表現法」(新明解国語辞典より)であるならば、文字のつづられ方だけが文体のことではない、とも言える。

 同じようなことを言っていても、雰囲気はかなり違う。

 文体を歌に置き換えて考えよう。山口百恵さんの「いい日旅立ち」を矢野顕子さんがカバーしているが、同じ曲と思えないくらいアレンジしている。歌詞は変えてないのに。

 つまり、小説の文体とは、歌における演奏と歌い方なのだ。

 今から書こうとする物語に合う文体を決めるのに、このお話はどのように歌おうか、とイメージを浮かべて幾通りか試してみるのもいい。

 次は、小説の終わらせ方を考える。

 始めたことをきちんと終わらせるのは、小説に限らず難しいものだ。皆さん、身の回りのことをざっと考えて。たいていのことは、始めるのは簡単だ。

 小説も、冒頭だけ書いたものなら十や二十あるという人がいる。そして書き上げたものはほとんどない。

 小説を終わらせるとは、どういうことか。もちろんこれに定義はない。梶井基次郎の「檸檬」はどう終わったか。あれを小説と言えるのなら、終わり方なんてなんでもあり、ということだ。

 ストーリーに固執しない柔軟な小説家はたいてい、創作途中に「路頭に迷う」。少なくとも私はそうだ。この小説をどう終わらせたらいいか、突如分からなくなる。広げた風呂敷の包み方が思い浮かばない。

 そんなとき一つ手がある。分からなくなったその時点で、小説を強制終了させるのだ。ブツッと。文章の体裁はある程度整えて。そして、最低一週間は放置して、読み直す。

 すると、手を入れ直さなければならないことがだいたいだが見えてくる。このままで存外いいのでは、と思えることもまれにある。そしてそのまま完成させ、のちに振り返ると、あの終わり方以外考えられない、と思うようになったりする。

 「檸檬」ももしや、梶井がお手上げになった結果、ああなったのかもしれない。皆さんも、ひるまず大胆に、小説を終わらせてみよう。 (芥川賞作家)=おわり

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