太平洋戦争末期、徳島白菊特攻隊の隊員として沖縄特攻で戦死した能勢寬治少尉(享年21歳)の妹、菱田靖子さん(87)=東京都=が、徳島の有志でつくる「徳島白菊特攻隊を語り継ぐ会」に、兄の遺品を寄贈した。白菊特攻隊の史実継承に役立ててもらおうと申し出た。
その遺品が、家族の元に届いたのは終戦前だった。
1945年3月の大阪大空襲で自宅を失い、一家は母の実家の兵庫県豊岡市城崎町に疎開していた。父と大阪に残り、堺市の軍需工場で働いていた菱田さんはある日、家族に会いに城崎に向かった。
家に着くと、部屋に軍服が掛けてあった。「兄が戻ったんだ」と姿を探したが見つからない。「母と墓参りに行っているかも知れない」。そう思って足を運んでみると、母がただ1人、墓石の前にうずくまって泣いていた。
「ああ、あれは兄の遺品なのだと分かった。この時、既に兄は沖縄特攻で亡くなっていたんです」
7つ上の兄は家族思いの優しい人だった。「遊びの中でも学ぶことはある」と美術館や映画にもよく連れて行ってくれた。
出征前の1943年暮れ、「ちょっと来てくれないか」と言われ、兄が通った関西大学のグラウンドに2人で出掛けた。ベンチで夕焼け空を眺めながら「もう来年の桜も、妹が嫁ぐ姿も見ることができなくなった」と心中を打ち明けられた。大学卒業後、司法試験を受けて弁護士になることを夢見ていたが、結局、それもかなわなかった。
徳島海軍航空基地に配属後、休暇の度に徳島市の新町橋近くの写真館から実家に電話を掛けてきた。姉が「どんな飛行機なの?」と聞いたところ、兄は「ボロボロ」と一言つぶやいた。
そして絶望的な戦局の中、スピードが遅く米軍の格好の標的にされるような練習機「白菊」に乗って、鹿児島県の串良基地を飛び立った。
正式に兄の戦死公報が届いたのは戦後、家族が大阪に戻った10月だった。その日まで、父は「もしかしたら生きているかもしれない」と、毎日のように旧厚生省に問い合わせ、元の家があった近くの駅に出掛けては帰りを待ち続けた。しかし、兄が戻ってくるはずもない。空襲で戦前のアルバムも焼けてしまい、城崎に届いた遺品が兄をしのぶよすがとなった。
その中にあった手帳には、1枚のモノクロ写真が挟まれていた。写っているのは、穏やかに笑う1人の女性だった。「彼女は兄の初めての恋人でした。とても達筆な方で、出征前は3日おきに兄に手紙を届けてくれました」
兄の戦死を伝えようかと母に相談したが、「彼女にも新しい人生がある。そのままにしておきなさい」と止められた。
その母も終戦翌年にがんで他界。菱田さんは母親代わりになってまだ小さかった2人の弟の面倒を見て多忙な日々を過ごした。結婚後は東京に移り住んだ。「それでも、ずっと心のどこかに引っ掛かっていたんです」
兄の50回忌を迎えた1994年、菱田さんは、兄の戦友たちに尋ねてみた。「もう初恋の人に連絡を取ってもいいだろうか?」。戦友たちは「もし生きているなら会ってみなさい」と賛同してくれた。
菱田さんは彼女が戦前通っていた大阪の女学校を手掛かりに、卒業生らに居場所を尋ねて回った。そして、見つけた。後藤八重子さん(旧姓西尾)。戦後は結婚して3人の娘をもうけ、夫が他界した後は奈良県で1人で暮らしていた。
菱田さんは50年間、彼女にどうしても伝えたいことがあった。兄が特攻直前まで持っていた手帳の中に、彼女の写真を挟んでいたことだ。
ようやく会うことができた後藤さんは、兄の戦死を知らなかった。そして遺品の手帳を開き、その場で泣き崩れた。手帳には彼女が戦時中に働いていた工場の連絡先が書かれてあった。
「八重子さんは戦後も兄を忘れたことはなかったそうです。『会えてよかった』と言ってくれ、私も安心できました」
以来、2人で兄らの慰霊碑が立つ高野山や靖国神社を訪れるなど、本当の姉妹のような付き合いを重ねた。
後藤さんは兄をしのんで歌も詠んだ。「今も尚 串良の基地を訪ぬれば 命競いし蛍いるかや」
そんな後藤さんも3年前、89歳で亡くなった。菱田さんは今回の遺品を寄贈するに当たり、伝えておきたい思いがある。
「遺品には戦死した兄の悲しみだけではなく、戦後もずっと兄を思い続けた人たちの気持ちが詰まっている。それはどんなに時間がたっても、決して消えることはない。戦争で人が亡くなるということは、そういうことです」。