その試合は日本ボクシング史にとどまらず、沖縄の戦後史に刻まれる事件だった。1976年10月10日、山梨学院大学体育館で行われた世界ボクシング協会(WBA)ジュニアフライ級(現ライトフライ級)タイトルマッチ。強打の王者ファン・グスマンを軽快なフットワークと連打で計4度倒し、7回32秒KO勝ちで新チャンピオンになったのは沖縄から来た無名のボクサー、具志堅用高だった。

 当時の日本人選手最速記録となる、デビュー9戦目での戴冠劇。突如リングに舞い降りた21歳のウチナーンチュ(沖縄の人)は「ワンヤ、カンムリワシニナイン(俺はカンムリワシになりたい)」と宣言。以後、日本ボクシング界に数々の伝説を打ち立て、その戦いぶりは沖縄の人たちを励まし、勇気づけた。

高校生で始めたボクシング 「神様が出合わせてくれた」

 1955年6月、石垣島で生まれた。泳ぎや釣りで毎日海に行き、日が沈んだら家に帰る生活。「貧しかったけど、ガージュー(頑丈な体)は島の大自然の中でつくられた」と胸を張る。

インターハイモスキート級決勝で、右クロスを決める具志堅用高=1973年8月7日、岐阜県

 地元での高校受験に失敗し、那覇市の興南高校へ。「下宿代が無料になる」という理由でボクシングを始めた。故金城眞吉監督の鬼の指導に耐え、3年の時にモスキート級のインターハイ王者に。「体が小さく、いじめられっ子だった僕がチャンピオンになるなんて、本当にうれしかったな。島の高校に落ちた時は本当にショックだったけど、神様が僕とボクシングを出合わせてくれたんだなと思う。石垣の高校に行っていたら、今ごろウミンチュ(漁師)をしているだろうね」と振り返る。  

プロに転向で上京 待っていたのは沖縄出身者への差別

 卒業後に上京し、プロに転向したのは74年。言葉や文化など、沖縄の人の誇りとするものが否定され、沖縄出身者に対する直接的な差別が残っていた時代だった。「当時、沖縄と本土にははっきりした線が引かれていた。だから僕は、この線を消すためにチャンピオンになって頑張ったのよ」と語る。

 ゴングが鳴ると旺盛な闘争心で挑戦者を次々倒し、勝利後のヒーローインタビューでは島くとぅば(沖縄の言葉)で素朴に受け答えした。その姿は、沖縄の人たちが本土に抱かされていたコンプレックスを一つずつ取り除いていった。

 「勝つたびに先輩が『胸を張って沖縄出身と言える』と喜んでくれてね。だからずっと沖縄代表のつもりで、僕の負けは沖縄の負けだと考えて。もし負けたら、あれだけ喜んでくれた沖縄の人たちに申し訳ない、悲しませたくないという気持ちでね」。背負うものが大きかったからこそ、厳しい練習を乗り越えられたという。

14度目の防衛戦に臨むベルト姿の具志堅用高。地元の熱い声援を受け、開始のゴングを待つ=1981年3月8日、具志川市営体育館

 81年3月8日に故郷沖縄で初黒星を喫して王座を明け渡すまで、13回連続防衛に成功。世界戦におけるこの防衛回数と6連続KO防衛は日本人男子の最高記録であり、今も破られていない(2020年5月現在)。2015年にはボクサーとしての実績が評価され、日本人では4人目となる国際ボクシング殿堂入りを果たした。
 
 「120パーセント、沖縄のために戦った」との言葉に一切の誇張はない。それゆえ、沖縄の若い人たちには並々ならぬ期待を寄せている。「一番大切なのは勇気、どんな困難にも立ち向かっていく勇気ね。沖縄の力を世界に示すために、みんなカンムリワシのように羽ばたいてほしいよね」

 ※徳島新聞社など全国24メディアが協力した、コラボレーション報道「コトバのチカラhttps://powerofwords.jp/)」との連携企画。沖縄タイムス+プラスhttps://www.okinawatimes.co.jp/)から。