メキシコ五輪で獲得した銀メダルを手に当時を振り返る藤本さん=東京都世田谷区の自宅

徳島レスリング熱狂とレガシー メダリスト誕生

 「金は磨かなくても光り続けるが、銀はさびてしまう。いつまでも自分を磨き続けろと言われているようだよ」。重量感のある銀メダルを手に取り、優しくほほ笑む。美馬市美馬町出身の藤本英男(75)=東京都世田谷区、日体大レスリング部顧問。1968年のメキシコ五輪で徳島県に初のオリンピックメダルをもたらし、現役引退後は母校・日体大の名指導者として功績を残したレスリング界のレジェンドだ。

 中学卒業時の身長は160センチ余り。「世界で勝負するには体重別で戦う競技しかない」と穴吹高レスリング部の門をたたき、監督の吉田廣一(ひろいち、故人)に師事した。柔軟な体と粘り強さでめきめきと頭角を現していった。

 地元五輪の熱気と興奮をじかに感じた。日体大2年だった64年、東京五輪のレスリング会場となった駒沢体育館で得点板の掲示係を務めた。穴吹高、日体大の7年先輩に当たる桜間幸次(82)=美馬市穴吹町穴吹=の勇姿を見て誓った。「次の五輪には自分が出る」

 卒業後に日体大助手となり、目標通り24歳でメキシコ五輪の切符をつかむ。グレコローマンスタイル・フェザー級は当時、旧ソ連や東欧に強豪が多く、前年の世界選手権で3位に入った藤本は厳しくマークされていた。

 金メダルを懸けた最終戦の相手は東京五輪で桜間が最後に敗れた旧ソ連のルルア。藤本は果敢に攻め、胴タックルからの投げで2ポイントを先取したがすぐに2ポイントを失う。互角の攻防が続き、勝負は引き分け。決勝リーグまでの持ち点差で銀メダルに終わった。それでも力を出し切り「悔いはなかった」と振り返る。

 70年の世界選手権で頂点を極め、72年のミュンヘン五輪(4位)を最後に現役引退。その後は日体大でコーチ、監督、部長を歴任した。2013年3月に退任するまでの約40年間に育てた選手は五輪出場者が延べ61人、世界選手権出場者は延べ212人に上る。「これだけの教え子に恵まれて幸せ。指導者になっている人も多く、世界で通用する選手を育ててほしい」と思いを託す。

 「俺もあんなふうになりたい」。藤本が銀メダルを取った姿に強い憧れを抱いたのが、当時穴吹高1年だった藤田芳弘(67)=美馬市美馬町川縁。国士舘大に進み、全日本選手権を何度も制しながら、重要な大会で勝ち切れずに代表切符を逃し続けた。「五輪に出るまではやめられない」。その一念で現役を続け、84年ロサンゼルス五輪のグレコローマンスタイル100キロ級に32歳で出場。7位に入賞した。

 藤田の1年後輩、高西一宏(66)=美馬市美馬町南原=は、旧郡里中3年の時、藤本が銀メダルを持って学校に来たことを覚えており、「すごい人がいるもんだ」と感激したという。穴吹高3年で競技を始め、わずか5年後の76年モントリオール五輪に出場。グレコローマンスタイル82キロ級で6位に入った。「初の国際大会が五輪で舞い上がった」と苦笑する。

 徳島県人で初めて五輪のレスリングに出た桜間の活躍に奮起した藤本。その藤本の銀メダル獲得に刺激を受けた藤田と高西。好循環によって次々とオリンピアンが誕生し、県内レスリング界は黄金期を築いていった。 (文中敬称略)

※日付・年齢などは2020年3月19日掲載時のもの

徳島新聞社など全国24メディアが協力した、コラボレーション報道「コトバのチカラhttps://powerofwords.jp/)」との連携企画記事