敗戦から間もない1951年、米ボストン・マラソンに、初めて日本が代表を送ったと19日付の当欄で書いた。この大会、徳島人なら忘れずにおきたい歴史がある。初の代表の1人は鳴門市の拝郷(はいごう)弘美さんだった
当時、市の周辺に広がっていた入り浜式塩田で働いていた。「公務員ランナー」に倣えば「塩田ランナー」である。元徳島陸協会長の森脇謙一さんは「塩作りの重労働で鍛えた、胸を張ったフォームが美しかった」と回想する
結果は2時間42分23秒で9位。トップから15分ほど遅れた。事情がある。派遣直前の試走会で、飛び出してきた人を避けた拍子に右足首を痛め、骨にひびが入った。激痛をこらえてレースに臨んだのである
国家公務員の初任給が5千円余りの時代に、渡米には60万円の自己負担が求められ、県民挙げての募金でしのいだ。期待に応えたかった。ゴール後、気絶し病院へ運ばれた
同年の金栗賞朝日(後の福岡国際)で優勝するも燃え尽き、以降は市職員として裏方に徹する。2007年、78歳で亡くなった
生前、なぜ走るのかと問われ、偉ぶることなくこう答えたのを、森脇さんはよく覚えている。「完走した時の気分は何とも言えんぞ」。脳裏をかすめたのはボストンの街並みか。鳴門大塚スポーツパークの走者の像は、拝郷さんがモデルといわれる。