徳島大空襲で焼け野原となった75年前の徳島市街地(県立博物館提供)

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月4日未明、徳島市の約6割が焦土と化した徳島大空襲があった。大量の焼夷弾を市街地に投下するという無差別攻撃は約2時間にわたり、死者は約千人を数える。終戦から75年。当時を知る空襲体験者は少なくなり、記憶の風化が加速している。悲劇を繰り返さないため、戦争の悲惨さや平和の尊さをどう後世に伝えていくか。空襲体験者の声など戦跡に触れ、薄れゆく徳島大空襲の記憶を心に刻む。

 7月4日午前1時すぎ、太平洋のマリアナ諸島から出撃した米軍のB29爆撃機が徳島市上空に襲来。その数は129機に上った。午前3時20分ごろまでの間、投下された焼夷弾の量は約千トン。市街地は一夜にして焼け野原となった。

 戦前の日本は木造家屋がほとんどで、攻撃対象を焼き払う焼夷弾になすすべもなかった。米軍の「作戦任務報告書」によると、爆撃の標的範囲を示す円の中心は、当時の市最大の商店街があった元町付近。住宅は次々と延焼し、神社や仏閣といった文化財、工場、学校なども炎に包まれた。

片山光男さん(左)、横山正さん(右)

 家族全員は無事だったものの、父親が公園内で営んでいた生活拠点の料亭は焼け落ちた。一帯には煙が立ちこめ「輝きを失い、紫色になった太陽を見た。異様な光景だった」と振り返った。

 「途中で田んぼに足がはまり、靴が脱げてもはだしで走った」。橋本保子さん(85)=徳島市佐古七番町=も10歳のときに大空襲に遭った。火の手から逃れて自宅から数キロ離れた鮎喰川沿いへ。焼夷弾が頭に落ちないように木の下で何時間もうずくまり、布団をかぶって息をひそめたという。
 無差別攻撃は子どもや女性、お年寄りら武器を持たない市民の命を無残に奪った。市街地から山や川へと逃げたが、人的被害は死者約千人のほか、負傷者約2千人、被災者約7万人。行方不明になった人も少なくない。

 大空襲で両親と弟、いとこを亡くした片山光男さん(88)=小松島市田野町。13歳だった。徳島駅近くの病院で入院していた父親を見舞うため、母親ら3人は空襲時に病院で泊まっていた。朝から焼け野原をひたすら歩き、「きっとどこかに避難している」と願いながら必死に探した。

 街中で焼死体やけが人を目にした。父親の親友らも加わって10日間ほど探したが、4人の姿はどこにもなかった。葬式では病院のベットにあった灰が遺骨代わり。「捜索の中止が決まった瞬間に涙が出てきた。終戦後、亡くなったことが信じられず、みんなが自宅に戻ってくる夢をよく見た」と声を振り絞った。

 この日は四国の高松、高知両市、瀬戸内海を挟んだ兵庫県姫路市でも大規模な空襲があった。

 徳島市内では他にも空襲被害が確認されており、徳島大空襲に次いで大きな被害を受けたのは45年6月22日の秋田町空襲。市史によると、午前9時半、B29爆撃機が現在の秋田町や栄町などに500キロ爆弾を5個落とし、被害は死者123人、負傷者101人、全壊家屋69戸とされている。

 「気付いたときにはがれきの中。何が起きたのか理解ができなかった」。当時11歳の横山正さん(86)=徳島市佐古五番町=は、自宅近くのなじみの家で弟と一緒にいた。その家のおばさんと話していたとき、急に意識を失った。

 周囲は一瞬で廃虚。弟は一命を取り留めたが、頭皮が裂け、手足に木や石がめり込んでいた。母親は自宅で生き埋めになり、同じ部屋でいたおばさんを含めて近所の知り合い十数人が亡くなった。

 被害に遭うまで空襲の恐怖は感じたことがなかったという横山さん。「私たち兄弟も爆撃で死んでもおかしくない状況だった。生死の境目を体験したことで急に恐ろしくなり、空襲の日の夜に両親の古里へ疎開した」と語った。

徳島大空襲後、1945年7月5日の紙面

 徳島市内では、75年たった今も空襲の爪痕がいくつか残っている。旧高原ビル(国際東船場113ビル、東船場町1)のひび割れた窓ガラス、焼夷弾が直撃して欠けた春日神社(眉山町大滝山)の灯籠、壊れずに焼け残った城東高校(中徳島町1)の赤れんが塀…。県立博物館にも焼夷弾の実物や熱で溶けた瓶などが常設展示され、物言わぬ語り部として空襲の記憶を後世に伝えている。

眉山中腹から見た徳島市街。中央の山が城山=2020年6月(小型無人機ドローンで特別な許可を得て撮影しています)

<徳島大空襲75年~体験者の証言>

歩けぬほど熱い地面 東條浩士さん(83)当時8歳 <証言動画>

数キロ先へ必死で避難 橋本保子さん(85)当時10歳 <証言動画>

夜空が赤く染まった 片山光男さん(88)当時13歳 <証言動画>

廃墟と化した秋田町 横山正さん(86)当時11歳 <証言動画>

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製作 : 徳島新聞・Yahoo!ニュース
取材 : 2020年6月