<徳島大空襲とは>

 市の6割焼失 死者1000人超、被災者7万人

 1945年7月4日午前1時すぎ、太平洋のマリアナ諸島から出撃した米軍のB29爆撃機が徳島市上空に襲来した。その数は129機に上り、約2時間にわたって大量の焼夷(しょうい)弾を投下する無差別攻撃を行い、市街地は一夜にして焼け野原となった。

 
 
 
 
 
 

 戦前の日本は木造家屋がほとんどで、攻撃対象を焼き払う焼夷弾になすすべもなかった。米軍の「作戦任務報告書」によると、この大空襲で投下された焼夷弾の量は約千トン。爆撃の標的範囲を示す円の中心は、市最大の商店街があった元町付近だった。

 住宅は次々と延焼し、神社や仏閣といった文化財、工場、学校、徳島駅も炎に包まれた。体験者は「夜空が真っ赤に染まった」「地獄のようだった」などと振り返る。コンクリート製のビルなどがわずかに焼け残り、徳島市の約6割が焼失したとされる。

 無差別攻撃は子どもや女性、お年寄りら武器を持たない市民の命を無残に奪った。市街地から山や川へと逃げたものの、死者は約千人を数え、負傷者は約2千人、被災者は約7万人に上った。行方不明になった肉親を焼け跡で必死に捜したが、見つからなかった人も少なくない。

 75年がたった今も空襲の爪痕は残っている。旧高原ビル(国際東船場113ビル、東船場町1)のひび割れた窓ガラス、焼夷弾が直撃して欠けた春日神社(眉山町大滝山)の灯籠、壊れずに焼け残った城東高校(中徳島町1)の赤れんが塀…。県立博物館にも焼夷弾の実物や熱で溶けた瓶などが常設展示され、物言わぬ語り部として空襲の記憶を後世に伝えている。

 市内では他にも空襲被害が多く確認されている。

 徳島大空襲に次いで大きな被害を受けたのは、45年6月22日の秋田町空襲。市史によると、午前9時半、B29爆撃機が現在の秋田町や栄町などに500㌔爆弾を5個投下した。死者123人、負傷者101人、全壊家屋69戸の被害が出たとされている。ただ、資料によって空襲の概要や被害に違いがあり、実態はいまだに分かっていない。

空襲の爪痕

ひび割れたままの窓ガラスー徳島市東船場1の級高原ビル
 
高熱で上部がはがれた石塔=徳島市眉山町の大滝山登り口
 
火災に遭った城東高校の赤れんが塀=徳島市中徳島1
 

製作 : 徳島新聞・Yahoo!ニュース
取材 : 2020年6月