父親が徳島市の徳島中央公園内で営んでいた料亭に3畳ほどの地下防空壕があった。空襲警報が頻繁に発令されるようになると、きょうだい5人と祖母、叔母はそこで寝ていた。徳島大空襲のとき、見知らぬ数人の大人が防空壕に入ってきて目が覚めた。焼夷弾が辺り一帯に落ちているようだった。

 しばらくして、大人に続いて防空壕から出ると、目の前が明るい。あちらこちらで上がる火の手に怖くなり、慌てて戻った。暗闇の中でじっとしていたが、燃え始めた料亭の煙が防空壕内に入ってきたので、薄い布団を頭にかぶって逃げ出した。

 公園の外へも出られず、全員で近くの池に行って漬かった。十数人はいた。辺りにはたびたび焼夷弾が落ち、直撃して苦しんでいる人もいた。池のそばの武術講習所「武徳殿」が燃えて熱かったため、頭の上の布団に何度も水を掛けた。そのときは恐怖というよりも無心。何も考えられなかった。

 3、4時間はたっただろうか。夜が明けて池から出ると、地面が歩けないほど熱かった。死んでいるのか、気を失っているのか、何人かが倒れていた。料亭は焼け、防空壕もつぶれていた。何より記憶に残っているのが太陽。もうもうと煙が立ち込める中、輝きを失い、紫色をしていた。異様な光景だった。

 焼け跡で全員がぼうぜんとしていた。昼ごろ、警防団の活動から帰ってきた父親が子ども5人の無事を確認し、「でかした。子どもさえおればいい」と喜んでいた。母親は、幼くして亡くした次男の位牌を運び出せなかったことを本当に悔やんでいた。

 空襲後、父親は疎開先に食料を運ぶとき、人目に付かないように子ども用の棺おけに食料を入れた。家族8人を食べさせるための行動だったが知らずに棺おけに向かって手を合わせる人もいた。終戦後は生きるのに必死だった。人が自分のことしか考えられなくなる、それが戦争だ。平和だから人間らしく生きられる。