両親に起こされ、自宅から飛び出した。空襲のようだが、はっきりとは分からない。暗闇の中、乳児だった一番下の弟を抱いた母親を見失わないよう、4歳の弟の手を引っ張り、兄と無我夢中で走った。上空を見上げたり、周囲を見渡したりする余裕はない。母親の様子から相当深刻な状況だと感じた。

 住んでいた徳島市中佐古9丁目(現・佐古五番町)は、小さな木造住宅が密集した地域だった。東(徳島駅方面)から火の手が迫っていたようで、逃げ出したときには自宅は燃え始めていたかもしれない。警防団員の父親は一緒に逃げず、消火活動のために残った。

 母親は安全な場所を求めて路地裏から郊外の田園地帯へ。はぐれないよう懸命に追った。途中で田んぼに足がはまって靴が脱げ、はだしで走った。たどり着いたのは数キロ離れた鮎喰川の土手。焼夷弾の直撃を避けるために木の下でうずくまり、弟と布団をかぶって息を潜めた。

 それまで空襲に恐怖を感じたことはなかった。学校で空襲警報が鳴っても「勉強せずに家へ帰れる」と気楽に考えていた。だが、実際に体験すると震えが止まらなかった。1時間ほどたち、避難してきた父親が「あかんわ」と漏らした。

 夜が明けると、佐古地区は焼け野原になっていた。あちこちで煙が上がり、街全体が熱い。自宅跡に残っていたのは鉄の羽釜とミシン台だけ。拾おうとした母親に「そんな物はいらん。命があったらどうにかなるわ」と父親が言った。空襲は街を奪い去った。でも、家族全員が無事に生き延びられたことに安堵した。

 戦後、苦しい生活が続く中で体の弱かった父親が亡くなった。行商で生計を立て、4人の子どもを懸命に育てた母親も57歳の若さで逝った。白髪が多く、歯も抜け、同年代の人と比べて随分年老いて見えた。戦争がなければ、両親はもっと安定した人生が送れていたはず。そう思うと、残念でならない。