徳島大空襲の前日、徳島駅近くの病院に入院している父親を見舞いに、いとこと行った。後から来た母親と0歳の弟、いとこはそのまま病院に泊まったが、私は翌日に用事があったので那賀郡立江町(現・小松島市立江町)の自宅に最終列車で戻った。その数時間後、徳島の空が真っ赤に染まった。

 夜中に空襲警報が鳴り、自宅からすぐのトンネルに逃げ込んだ。飛行機が北に向かい、照明弾が何回か光った。しばらくすると、徳島方面が真昼のように明るくなった。両親らは大丈夫なのか。心配でたまらなかったが、どうしようもできない。明け方まで見ていたと思う。

 始発列車で徳島へ向かったが、現在の地蔵橋駅付近までしか行けない。一帯は焼け野原。線路伝いに歩いていると、顔や服が黒く汚れた人たちとすれ違った。おばあさんが「熱かっただろ。熱かっただろ」と言いながら、少年らしき焼死体をうちわであおいでいた。そんな光景に驚くばかりだった。

 何とかたどり着いた病院は、まだ燃えていた記憶がある。空襲時は近くの小学校舎に避難すると聞いていたので、無事に逃げたと思っていた。だが、校舎にいない。救護所や別の病院、眉山の麓なども回って捜した。次の日からは父親の親友らも捜索を手伝ってくれた。

 並べられた死体の顔を何度ものぞき込んだ。でも、4人は見当たらなかった。方々を捜して10日ほどたったころ、父親の兄から「もう中止しよう」と言われ、涙が止まらなかった。葬式はしたが、病院のベッドにあった灰が遺骨代わりだった。

 「どこかで生きているかもしれない」。そんな思いが捨て切れず、空襲から10年ほどは4人が自宅に戻ってくる夢を見た。後から聞いた話では、空襲直後に吉野川沿いで遺体を焼いている光景を見た人がいるという。死者数を少なくするためだろうか。きっと4人はその中にいたのだと思う。戦争は本当に悲惨で、むごい。