秋田町空襲があったのは徳島大空襲の12日前だった。その日は空襲警報が発令されたので自宅にいたところ、母親から近所の酒屋に用事を頼まれた。家族ぐるみの付き合いだった酒屋のおばさんに誘われ、弟と家に上がった。お駄賃代わりにもらった鉛筆で字を書くまねをしながら畳に寝転んでいたとき、意識を失った。
気が付くと、がれきの中だった。土煙が舞い、周囲は廃虚となっていた。顔を触ると血が出ていて、状況が理解できない。まず心配になったのが自宅にいる母親のことだった。破裂した水道管の水で顔を洗い、夢遊病者のようにふらふらと帰った。自宅は完全につぶれていた。近所の人が駆け寄ってきて、けがをした私を臨時の救護所に運んだ。そのときは恐怖感はなく、母親や自宅のこと以外は考えられなかった。
治療を終えて帰っていたとき、前方から担架がやって来た。のぞき込むと、傷だらけになった弟だった。あまりの衝撃で一緒にいた弟の存在を忘れてしまっていた。弟は頭皮が裂け、手足に木や石がめり込んでいた。医師からは「あと1センチ傷が深ければ死んでいた」と言われた。
家の下敷きになっていた母親は、父親や近所の人が助け出した。大けがを負った家族や廃虚と化した街。時間がたつにつれ、生死の境目にいたことが分かり、空襲が恐ろしくなった。その日の夜、両親の故郷の板野郡板東町(現・鳴門市大麻町)に疎開した。
後から聞いた話だが、空襲直前まで目の前にいた酒屋のおばさんとその家の女の子をはじめ、知り合いが十数人亡くなった。私たち兄弟も死んでもおかしくない状況だった。サイレンの音がトラウマになり、75年たった今も気味が悪い。
秋田町空襲から1年が過ぎたころ、急病で母親が亡くなった。同級生とけんかしたとき、「焼け出され」とののしられたり、配給で腐ったサツマイモを渡されたりと、悔しい思いをした。戦時中より戦後の生活の方が大変だった。