桜島を背に鳴門の第九への思いを語る重久さん=鹿児島市

板東の奇跡に感銘


 最初は半信半疑だった。「かごしま第九を歌う会」会長の重久瑞さん(85)=鹿児島市=は1996年、初めて鳴門市のベートーベン「第九」交響曲演奏会に参加した際、同市ドイツ館で見た展示資料に驚きを隠せなかった。
 
 そこには、第1次大戦中に近くにあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵が音楽や演劇など多彩な芸術文化を謳歌し、地域住民と日常的に交流していた史実が紹介されていた。そして人道的な気風が漂う中、ドイツ兵によって第九が日本初演されたことも語られていた。
 
 「初演の話は聞いていたが、詳しい経緯は知らなかった。本当にこんなことがあり得たのだろうか」。それが率直な感想だった。なぜなら重久さん自身が終戦直後の1年余り、鉄条網に囲まれて暮らした過酷な体験をしていたからだ。
 
 45年8月9日未明、突如として旧ソ連軍が旧満州(現中国北東部)に攻め入ったとき、当時14歳だった重久さんは首都の新京にいた。一家5人はソ連兵の手を逃れ、多くの満州の日本人と共に終戦まで日本統治下だった朝鮮北部へと逃げ延びる。しかし、そこで待っていたのは、鉄条網が張り巡らされた難民収容所での絶望的な生活だった。
 
 朝鮮北部を掌握したソ連軍は日本人の移動を禁止し、日本からも救いの手は差し伸べられなかった。足りない食料、劣悪な衛生環境。冬には零下20度にもなる極寒の地で、夏服のままむしろをかぶって寝起きし、カボチャのつるを食べて飢えをしのいだ。
 
 「冬を越せず、幼い子どもやお年寄りが一人、また一人と命を落とした。遺体は山の中へ打ち捨てられた」
 
 当時、現在の北朝鮮にいた日本人約3万5千人が亡くなった。その大半の遺骨は今も収集されないままだ。
 
 「もう次の冬は越せない」と、決死の覚悟で脱出したのが46年9月。見つかればソ連兵に銃殺されるという恐怖心の中、身を潜めて近くの川から漁船で逃げた。苦難の果てに両親の故郷鹿児島にたどり着いたが、戦後しばらくして父は感染症の影響で他界した。
 
 「戦争の理不尽さを嫌と言うほど味わった一人として、板東の史実は奇跡のように思えた。70年前、私たちが過ごした収容所には音楽も自由もなかった。しかし、板東にはそれがあった」
 
 戦後、明治大で混声合唱団を創設するなど学生時代から合唱に打ち込み、各地の第九演奏会に出演することをライフワークとしてきた。そんな重久さんにとって「平和の象徴」ともいえる鳴門の第九は、かけがえのない存在となった。
 
 2001年には鳴門市民ら大合唱団によるドイツ・リューネブルク市での第九里帰り公演にも加わった。会場を訪れたドイツ兵捕虜の子孫たちから「父や祖父は板東で過ごした思い出をとても大切にしていた」という話を聞き、言葉の重さが心に染みた。
 
 「戦時下でも板東では人間性が失われず、平和を希求する第九が歌われた。その本当の価値を知る私たち戦争体験者が、この史実を後世に伝えなければならない」
 
 使命感を胸に、重久さんは6月5日、21回目の鳴門の舞台に立つ。