「鳴門の第九のおかげで元気に暮らせる」と話す浅野さん夫妻=鳴門市文化会館前

出演者は家族同然

 思いがけないプレゼントだった。鳴門市のベートーベン「第九」演奏会が30回記念を迎えた2011年6月、全国の仲間が集まる本番前日のセレモニーで、1組の夫婦に記念品が贈られた。藍色の感謝状を埋め込んだガラスの盾。鳴門の第九の関係者が、2人の清廉な人柄をイメージして作ったものだった。
 
 受け取ったのは、浅野司郎さん(82)、里江さん(83)夫妻=同市撫養町黒崎。長年、事務局の中心として、演奏会の運営を切り盛りしてきた鳴門の第九の立役者だ。
 
 「礼を言いたかったのは私たちの方。鳴門の第九が生きがいだったからこそ、今まで元気に暮らしてこられた」。夫妻は互いにほほ笑み合いながら、あふれる感謝の思いを口にする。
 
 共に元教員で、徳島大で音楽を専攻した同窓生。音楽を愛する共通点が、2人を強く結び付けた。
 
 1950年代初めのこと、司郎さんは阿波高校オーケストラ部の創設メンバーだった。池田高と並ぶ県内先駆けの高校オケで、チェロやコントラバスの弦楽器を担当していた。戦後間もなく、まだ楽器の数が少なかった時代。部員7、8人で楽団を組み、のど自慢大会で伴奏をするなどして楽器代を稼いだ。
 
 「何より音楽を演奏できるのが喜びだった。戦時中の子どもの頃は軍歌ばかりで、心から音楽に飢えていたように思う」
 
 その頃、里江さんは鳴門高で合唱部に所属していた。大学進学後、1学年後輩の司郎さんと出会い、音楽教員になった後に結婚。瀬戸中に勤務していた82年、鳴門市文化会館の落成記念で市内の中学生も第九の合唱に加わることになり、深く第九に関わるようになった。
 
 「瀬戸中では希望者を募ることから始めた。私も歌ったことがない第九を、来る日も来る日も懸命に練習した」と振り返る。
 
 第1回の演奏会では、里江さんも子どもたちと一緒に舞台に立った。みんなの心が一つになれた感動が忘れられず、以来、毎年のように出演を続ける。
 
 教員時代は吹奏楽部の顧問などをしていた司郎さんも、里江さんをサポートするように第九に引きつけられた。合唱や裏方に加わり、共に長い歳月を積み重ねてきた。
 
 夫妻は毎年、全国から訪れる出演者を「お帰りなさい」と出迎える。鳴門は第九に携わる人たちの古里-。日本初演の地の誇りを大切にしながら、いつも柔和な笑顔で出演者をリラックスさせ、どんな問い合わせにも親身になって相談に乗る。
 
 運営スタッフには教員時代の教え子も多く、恩師が率先して走り回る姿に手抜きはできない。全国に第九演奏会は数あれど、「鳴門ほど心地よく歌える場所は他にない」と語る人は少なくない。
 
 「その言葉が一番の励みになる」と司郎さん。里江さんは「私たちにとっては盆や正月に家族が集まるのと同じ」と目を細める。
 
 今年も鳴門の第九の準備に奔走する。日本初演100周年の2年後、夫妻にとってはダイヤモンドに例えられる結婚60周年を迎える。宝石のように輝く記念の年を目指し、夫婦二人三脚の歩みは続く。