第九の練習に余念がない松田さん(前列右端)ら徳島交響楽団=徳島大常三島キャンパス

歓喜導く市民オケ

 1982年5月15日、徳島市の徳島中央公園近くにあった音楽喫茶「みき」は、異様な熱気に包まれていた。鳴門市文化会館の落成記念で、ベートーベン「第九」交響曲が演奏された日の夜。徳島市民管弦楽団(現徳島交響楽団)の団員約70人は、オープンリールの録音デッキを囲んで音楽に聴き入っていた。
 
 「再生されていたのはその日、私たちが演奏した鳴門の第九だった」。楽団創設メンバーで、チェロ奏者の松田稔さん(68)=徳島市八万町新貝=は、この夜を昨日のことのように覚えている。
 
 「歓喜の歌」の大合唱と一体となって流れる管弦楽の響き。思わず涙があふれ、目の前がぼやけて見えた。隣の団員も声を上げずに泣いていた。
 
 「市民オケと市民合唱団による第九を初めて徳島で実現できた。あの日の達成感は一生忘れられない」
 
 演奏会までの道のりには曲折があった。当初、落成記念には宝塚歌劇団のステージも候補に挙がっていた。
 
 当時、歌劇団の親会社が鳴門-神戸の水中翼船を運航していた縁で、タカラジェンヌが鳴門の阿波踊りに踊り込んでいた。市関係者の間には「華やかな宝塚で行こう」という意見もあった。
 
 しかし、鳴門は第九日本初演の地。松田さんは「やはり第九こそふさわしい」との思いを抱いていた。徳島大交響楽団のOBが中心になって市民管弦楽団を発足したのは71年。松田さんらは、音楽の最高峰の第九に挑むことを目指して楽団を作った。それほど第九は特別な曲だった。
 
 楽団のまとめ役だった「みき」のマスター、故三木芳彦さんは、当時の鳴門市長に「第九をやらせてほしい」と直訴した。その後、市民管弦楽団が第九を演奏することに決まったが、「本当に立派なものができるのか」という懐疑的な見方が強かった。
 
 芳彦さんの妻で、現在の楽団をまとめる征子さん(69)=徳島市川内町鶴島=は思い起こす。「若い団員たちは、周囲の声に燃えていた。絶対成功させるんだという気持ちで必死で練習した」
 
 そして迎えた本番、演奏会を終えた会場は鳴りやまない拍手に包まれた。松田さんら団員は、今まで経験したことのないような感動に胸を震わせた。この日の演奏は芳彦さんの録音によってLPレコードとなり、団員たちの宝物となっている。
 
 第1回演奏会を終えた秋、楽団は徳島交響楽団の名称に変わった。その後、「メインの定期演奏会の負担になる」と、毎年継続して鳴門の第九に出演することに反対する団員もいた。しかし、鳴門市側の熱のこもった要望や、芳彦さんらの「鳴門の第九を大切にしていこう」との意見が尊重された。
 
 過去34回の演奏会のうち、徳響は31回に出演。第11回の演奏は、鳴門市ドイツ館で日本初演の様子を再現した、人形シアターの音源にも使われている。
 
 時代は変わり、団員も入れ替わった。「それでも、徳響の原点はあの日の第九。これからも鳴門の第九とともに歩み続けたい」。第1回からほぼ全ての演奏会に参加してきた松田さんは、今年も「人生そのもの」と語る第九の練習に余念がない。