歴史刻んだ祖父誇り
ドイツにも藍染で栄えた街があった。旧東ドイツだった中央部の都市エアフルト。阿波藍とは異なるウォードと呼ばれる藍を染料に、中世には盛んに交易が行われたという。
「第2次大戦で焦土と化したドイツの中で、エアフルトは空爆による被害が少なかった。だから、古い建物がそのまま残っているんです」
この街で暮らすグードルン・ロートマンさん(74)が、夫のヘルムートさん(72)と車で市街地を案内してくれた。中世の香りが漂う絵はがきのような家並みが、藍染で栄えた名残だと思うと妙に親近感が湧いた。
ロートマンさんの祖父は第1次大戦中、鳴門市の板東俘虜収容所にいたエドムンド・ギュンシュマンさん(1893〜1957)。ドイツ兵捕虜でつくる徳島オーケストラのトランペット奏者で、18年6月1日に第九をアジア初演した団員だ。
鳴門市ドイツ館前館長の川上三郎さん(72)によると、第九を初演した徳島オケの45人の名簿は確認されていない。しかし現在、団員の写真を基に3人を特定できており、その1人がギュンシュマンさんだ。
郊外にある自宅に着き、収容所時代の写真や資料を見せてもらった。ロートマンさんは、祖父がトランペット以外にも、チェロやクラリネットなどさまざまな楽器を演奏していたことを覚えている。第1次大戦後、ドイツに戻って大工をしながら地元の楽団の責任者を務め、教会のフェスティバルなどに出演していた。
「祖父は戦時中の敵国の収容所でも、大好きだった音楽に打ち込めた。板東の自由な気風と寛容さは比類なきものだと思う」
板東収容所についてはある程度、母親らから聞いていた。しかし、詳しい歴史や第九アジア初演について知ったのは2003年、鳴門市民らがドイツ北部のブラウンシュバイクで開いた「第九里帰り公演」に足を運んだときだった。
「祖父が第九の初演メンバーだと聞き、心から誇りに思った。そして、友好的な方法で自由や平和を訴えた板東の第九は、あの日の出来事と重なって見えた」
あの日とは、東西ドイツを分断していたベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日。越えられないもの、変えられないものの象徴だった壁が崩れ、東西冷戦は事実上終結した。社会主義国家の旧東ドイツで半生を過ごしたロートマンさんの人生も大きく変えた。
「抑圧からの自由を求めた市民が、血を流さず平和的に壁を崩したことに感動した。そこには、板東の第九の精神に通じるものがあった」
同年12月25日、ベルリンの壁崩壊を記念したコンサートで、世界的指揮者レナード・バーンスタインによって演奏されたのも第九だった。第4楽章の歌詞の「フロイデ(歓喜)」を「フライハイト(自由)」と言い換えて歌われたこの日の第九は、今も世界中の多くの人たちの心に残っている。
「おそらく祖父が演奏した第九も、同じ響きだったのではないでしょうか」。板東の歴史を深く知った今、ロートマンさんはそんな思いを抱いている。