平和への願いを訴えるグードルン・ロートマンさん(右)と夫のヘルムートさん=ドイツ・エアフルト

争い続く世界を憂う

 荷車を引く牛のそばに立つ穏やかな表情をした男性−。ドイツ中央部のエアフルトで暮らすグードルン・ロートマンさん(74)と夫のヘルムートさん(72)が、1枚の古びた写真を見せてくれた。

 写っているのはロートマンさんの祖父で、第1次大戦中に鳴門市の板東俘虜収容所にいたエドムンド・ギュンシュマンさん(1893〜1957年)。トランペット奏者として第九をアジア初演した後、ドイツに帰国してからの風景だ。

 「祖父は結婚して4人の息子を育て、大工の傍ら牧場を経営していた。でも、平穏な暮らしはそれほど長くは続きませんでした」

 板東のドイツ兵が解放された20年後、世界は再び戦争の惨禍に見舞われる。ギュンシュマンさん自身は戦地に赴かなかったが、息子4人うち3人が出征し、次男が戦死した。3男でロートマンさんの父ゲルトさんは、45年のベルリン攻防戦まで戦い、敗戦後に旧ソ連の収容所で捕虜となった。

 「父は祖父から人道的だった板東の話を聞かされて育った。しかし、ソ連の収容所は全く違う場所でした」

 第2次大戦の独ソ戦は熾烈を極め、憎しみが憎しみを生んだ。旧西ドイツがまとめた記録によると、ソ連の捕虜となったドイツ人350万人のうち、100万人以上が祖国の土を踏めずに亡くなった。そのほとんどが餓死だった。一方、戦時中のドイツの収容所でも250万人以上のソ連人捕虜が命を落とした。

 ゲルトさんは50年に帰国できた。しかし、91年に他界するまでソ連の収容所については多くを語らなかった。

 ロートマンさんは最近、旧日本軍の神風特攻隊の映画を見て胸を痛めたという。「そこで質問があります。日本では第2次大戦中にも板東のような収容所はありましたか?」

 問い掛けられて「そういう収容所はなかった思う」と答えた。静かにうなずいたロートマンさんは悲しい目をして語った。

 「私たちには板東という歴史がありながら、どうしてそこから学ぶことができなかったのでしょうか」

 冷戦を終結させたベルリンの壁の崩壊も、当初は世界の融和を予感させたが、次第に期待はしぼんでいった。

 造園関係の仕事に就くヘルムートさんは言う。「旧東ドイツは80年代、家を建てようにも建築資材がないほど貧しかった。ドイツは統一し、確かに生活水準は上がった。しかし、信じていた平和な未来は訪れなかった」

 ベルリンの壁が消えた後も、民族や宗教の対立は絶えることなく、世界中でテロと報復の連鎖が続く。

 ただ、夫妻は希望を捨ててはいない。2003年、鳴門市民らの合唱団が訪独し、ドイツ人の合唱やオーケストラと心を一つに演奏した第九。板東の精神を再現したかのようなステージを目の当たりにし、その感動が胸の奥に刻み込まれているからだ。

 「一人一人があの友愛の気持ちを持つことができれば、きっと世界は良くなるはず。たとえ微力だとしても、小石を積むようにこつこつと、板東の史実を伝えていきたい」。