長崎で目撃した原爆などについて語る樫原哲男さん=阿波市市場町の自宅

館山砲術学校時代の樫原哲男さん=1944年、千葉県館山市

 原子爆弾が投下された日の長崎に、旧満州(中国東北部)の戦場に、徳島県出身の将兵らはいた。そこで見たものは、信じ難い光景と極限状態の人間の姿だった。戦後75年、彼らの心を離れなかった戦争の記憶。令和の今、勇気ある証言が軍国主義と戦争の恐怖の素顔をあばき出す。4月に連載した「令和に語り継ぐ」第1部に続いて、第2部でも、元将兵の証言に戦場の真実を追う。

 長崎市に原子爆弾が落とされた1945(昭和20)年8月9日、佐世保鎮守府軍港警備隊の海軍1等兵曹だった樫原哲男さん(96)=阿波市市場町=は、長崎県川棚町の三越砲台で防空の任務に就いていた。

 大村湾をはさんで長崎市から北に約30キロ離れた三越砲台には、2基の12・7センチ連装高角砲のほか、機関砲が設置されていた。樫原さんは、敵機の方角に向けて高角砲の砲身を旋回させるのが役目だ。

 雲に覆われた空の下、この日も三越砲台では、早朝から樫原さんら約50人の兵士が敵機の来襲に備えていた。

 樫原さんは原爆投下前後の状況をこう証言する。「午前11時ごろ、砲台は、軍港警備隊本部から『長崎上空、敵機来襲。敵機見つけ次第、砲撃せよ。落下傘爆弾を目がけて砲撃せよ』との指令を受けた。大村湾の南の空に『ゴーン』という爆音を聞いたので、長崎上空を目がけて無差別砲撃した」と振り返る。長崎の空は遠く、射程外だったが、樫原さんらの1基の連装高角砲から計20発ぐらい撃ったと言う。「当たるも当たらんもない。べらぼう射撃だった」という慌てぶりだ。

 その直後。「ピカッと光った時、目がくらみ、爆音を聞いて倒れた。全員が腰を抜かしたようだった」。せん光と大音響に続いて、長崎市上空に、巨大なきのこ雲が上がるのを樫原さんらは見た。

 爆心地から離れた三越砲台では、けが人は出なかった。樫原さんは「原爆」や「新型爆弾」という言葉さえ知らなかったが「大変なことが起きた。落下傘爆弾が落ちた。戦争は負けたと思ったねえ」と振り返る。

 広島で原爆が初めて実戦使用された翌日の7日、三越砲台長が全員を前に訓示し「広島で人が黒焦げになって、大きな被害が出た」と話した。それで、長崎にも甚大な威力の落下傘爆弾が落ちたと分かったのだ。

 米軍のB29爆撃機は9日午前11時2分ごろ、長崎市にプルトニウム型原爆「ファットマン」を投下した。樫原さんが見たきのこ雲の下では、想像を絶する熱線と爆風、巨大な火球が市民を襲い、長崎市では45年末までに約7万4千人が亡くなった。

 「敵機見つけ次第、落下傘爆弾を目がけて砲撃せよ」という指令は、B29による長崎への原爆投下を、日本が直前に察知したことを示すものなのだろうか。樫原さんは「敵機見つけ次第」という言葉から、日本は落下傘爆弾、つまり原爆が投下されることを直前には「分かっとったんだろうね」との見方を示した。

 1923(大正12)年、阿波市の山間部に生まれた樫原さんは、奈良県の天理外国語学校(現天理大)在学中の43年11月に、学徒出陣した。佐世保市の相浦海兵団で新兵教育を受けた後、千葉県館山市の館山砲術学校で約半年間、高角砲の訓練を積んだ。

 「水上飛行艇が引っ張る標的を目がけて、高角砲を発射した。方向、風向、高度を計る高射器の兵士の指示を受けて、高角砲を旋回させて発射する。標的から50メートル以内なら当たりになるが、10発に1発しか当たらない」と語る。

 高速で飛行する標的の進路を前もって計算し、撃ち落とすのは容易ではなかった。

 44年9月に三越砲台の任務に就いた樫原さんにとって、機体が見えないB29の爆音を目がけて、高射器も使わずに高角砲を発射した9日が最後の戦闘になった。きのこ雲を見た後、樫原さんらは兵舎に帰った。それ以降は、敗戦を見越して「砲台で残務整理をした」と言う。

 戦後、樫原さんは家業の農林業のほか、徳島市で自動車関連の会社を経営し、1男2女を育て上げ、孫やひ孫の顔も見た。

 令和の今、市場町の自然豊かな生家で、穏やかな老後の日々を送る樫原さんは「無謀な戦争だった。生きて帰ったのが不思議に思う。原爆も戦争も残酷だ。二度と戦争はしてはならん」と結んだ。

⇨ 樫原さん(阿波市)を悼む 長崎原爆で貴重な証言