「対話」を公約に掲げ、4月の徳島市長選で当選した内藤佐和子氏。私立認定こども園・保育園の施設整備計画を突如、大幅に縮小したことを巡り、「『対話』ができていないのでは」「公約違反じゃないか」という声があちこちで聞こえます。ここでちょっと立ち止まって考えたい。そもそも「対話」って何でしたっけ。なんで民主主義において「対話」が大事なんでしょう。「対話」のある社会を実現するため、思索と行動をしてきた方々に話を聞きました。 

 

 

徳島大・山口裕之教授

「批判なければおしゃべり 感情交えず合意点を探す」

山口裕之教授

 ―著書「人をつなぐ対話の技術」(日本実業出版社、2016年)では、「民主主義とは対話だ」と論じています。

 多数決で決めることが民主主義だと思っている人がたくさんいますが、この発想は間違っています。多数決はみんなの意見を聞くためのひとつの手段ですが、民主主義の本質ではない。でも、小学校でも何かを決めるときにすぐに多数決を取るから誤解しちゃうんでしょうね。

 衆院議員のことを「代議士」と呼びます。これは有権者の代わりに議論する人たちだから。「私はこういう根拠に基づき、こう考える」と意見表明すると、それに対して別の事実や立場に基づく反論がある。そうやって互いの立場を理解し、補い合い、間違いを正していくのが国会をはじめとする議会ですべき議論、対話です。

 議論をいくら重ねても、自説を譲らない人もいますね。しかし、そういう人は少数だと期待しましょう。十分議論した上で多数決を取るなら、正しい方が勝つはずです。議論せず初めから多数決で決めるなら国会は要らない。民主主義の本来あるべき姿は、反対派、少数派の立場からの意見もきちんと聞いて、みんなが納得する結論を出すことです。残念ながら(強行採決を繰り返す)現政権下の国会はそうなっていませんが。

 ―今の日本社会は、批判や反論をネガティブに捉える傾向があるように思います。内藤市長も自身の対話の定義を語る中、「相手を否定したり批判したりすることでなく」と除外しています。

 人間には自分に都合のいい情報ばかりを無意識的に集める「確証バイアス」という傾向があります。だから、批判は非常に重要です。「こういうことをちゃんと考えてる?」と異なる視点から指摘してくれる野党はとても大事です。

 今、「批判」と「非難」を混同している人が多い。

 例えば、俳優の小泉今日子さんが検察官の定年を引き上げる法案に反対しました。これに対し、「芸能人なのにそんなこと言うなんて」という声がSNSで上がりました。このように対話を閉ざすのが非難です。論拠を上げて反論すれば、批判になる。批判こそが対話につながります。批判のない対話は、ただのおしゃべりです。

 また、心を傷つけてはいけないという風潮もまん延しています。自分の意見が批判されたら、いい気持ちはしない。そうしたときに「嫌な気持ちがした。だからあの人は悪い」と主張する人がいる。でも、そこは抑えて自分の考えを見直すことが必要です。

 こういうことがないまぜになり、批判を避ける傾向が生まれているのかもしれません。

 ―トップダウンで決めることの弊害とは。

 トップがアホだとみなコケるということです。身もふたもない言い方ですが。

 最終的には誰かが決断しないといけない。しかし、人間ひとりだと自分に都合のいい情報ばかり集めてしまって、妥当な判断ができない。だから批判者が必要です。自分のことを思ってくれる人は悪いところを指摘してくれますよね。何でもヨイショしてくれる人は一番警戒すべきです。

 ―改めて聞きます。「対話」をどう定義しますか。

 異なる立場の人が論理と事実に基づき、感情を交えず、議論する。お互い、自分の足りないところがあれば、考え直し、相手がおかしければ直してもらい、互いが納得できる合意点を一緒に探す、つくっていくという行為。

 「腹が立つ」といった感情は議論のモチベーションにはなるが、論拠にはなりません。「私がむかついたから相手は間違っている」という主張は成り立たない。感情とは眼前の状況への反射的反応です。話し合い、相手の事情や背景が分かれば腹も立たなくなる。感情重視は対話の欠如につながります。

 やまぐち・ひろゆき 徳島大総合科学部教授(哲学)。1970年、奈良県生まれ。2002年、東京大大学院人文社会系研究科の博士(文学)取得。徳島大総合科学部准教授などを経て18年から現職。著書に「『大学改革』という病」(明石書店、17年)、「語源から哲学がわかる事典」(日本実業出版社、19年)など。