受け継がれる人類愛
音楽家、家具職人、印刷工・・・。第1次大戦中、鳴門市にあった板東俘虜収容所の捕虜たちは、実に多彩な才能を持っていた。建築家のカーステン・ヘルマン・ズーアさん(1876〜1950年)もその一人だ。
収容所から解放後、戦前にいた中国に戻り、最晩年にドイツに帰国するまで数多くの建造物を設計した。
「上海の大学や銀行など、今も残っている建物があるんですよ」。ドイツ南西部のバッハラッハで暮らす孫のマリオン・ズーア・モイリッヒさん(63)は誇らしげに語る。
もともと無口で、人道的だった板東の思い出を語ることは少なかった。しかし、板東への感謝の気持ちは抱き続けた。ドイツ政府が第1次大戦の功労者に贈った勲章をかたくなに拒否したのも、日本と敵対したことを誇りに感じられないことが理由だったという。
モイリッヒさんは板東の史実に感銘を受け、日本を愛するようになった。父も兄も同じ思いだった。
92歳になる父ハンスさんは、キャッシュレジスターを製造する日本企業に勤め、ドイツと日本を往復しながら最後は神奈川県の大磯工場長を務めた。大磯で暮らした吉田茂元首相や、ソニーを創業した若き日の盛田昭夫氏と親交を深め、87年には国際交流への貢献で大磯町名誉町民の称号を贈られている。
祖父の名前を受け継ぐ兄カーステンさん(65)も、若い頃は日本の大手建設会社で働いた。バッハラッハで妻らと飲食店を営むカーステンさんは「みんな板東を知って日本が好きになる。おかげで息子まで日本企業に入りましたよ」と白い歯をこぼす。
第九アジア初演に象徴される板東の人類愛も、子孫に受け継がれた。モイリッヒさんは積極的に反戦活動に参加。日本のテレビ局のドイツロケを仲介する職業を生かし、平和がテーマの番組製作にも携わる。紛争地域で大病や大けがをした子どもたちを受け入れる施設「ドイツ国際平和村」(オーバーハウゼン)を紹介し、日本で支援の輪を広げたのも彼女だ。
親日一家のルーツである板東収容所が閉鎖90年を迎えた2010年、モイリッヒさんは祖父が残した捕虜時代のスケッチ画を鳴門市ドイツ館に寄贈しようと考えた。父らと相談して選んだ1枚は、収容所近くの大麻比古神社の境内を描いたものだった。
10月29日、スケッチ画を手に祖父が暮らした鳴門市を初めて訪れた。ドイツ館前では約100人の市民が熱烈に歓迎してくれた。
「幼い頃から眺めてきたスケッチ画と同じ風景、90年の歳月を経ても温かい鳴門の人たち。生涯忘れられない思い出になりました」
寄贈式を待っていた時、館内にドイツ国際平和村のポスターが貼られているのを見つけた。徳島にも支援組織があり、事務局がここに置かれていた。
「私が受け継いだ平和を願う思いは、板東に届いていた。そんな巡り合わせってあるんですね」。この日の出来事を思い出すたび、胸を熱くしている。