グランドピアノの脇で父について語るジームセンさん=ドイツ・ハンブルク

寛容の精神父の胸に


 北緯53度。北海道のさらに北、サハリン北部と同じ緯度に、ドイツ第2の都市ハンブルクはある。

 人工湖へと流れる水路が縦横に走り、運河沿いには赤れんがの倉庫が並ぶ街。暖流の影響で極端に気温は下がらないとはいえ、現地を訪れた8月半ばでも長袖姿の人が目立つ。

 「日本の夏では考えられない涼しさでしょう。まあ、いつも天気は悪いんですがね」

 車で観光案内をしてくれたジームズ・ジームセンさん(75)が、車内のディスプレーを指さした。気温は18度。肌寒いはずだ。

 ジームセンさんの父は、第1次大戦中に鳴門市にあった板東俘虜収容所のドイツ兵で、中国生まれのウィリアムさん(1890〜1961年)。伯父のフレデリックさん(1888〜1981年)も板東の捕虜だった。

 ジームセンさんは、父が早世した前妻と再婚した妻との間にもうけた7人きょうだいの末っ子。ハンブルクで内科医として働き、快活で若々しい。

 閑静な住宅街にある自宅に迎え入れてもらうと、リビングにグランドピアノがあった。ジームセンさん自身はたしなむ程度だが、家族が好んで演奏するという。

 「父は幼いころから音楽が趣味だった。私も彼の影響でクラシック音楽を聴くのが大好きなんですよ」

 父は板東時代、捕虜でつくるエンゲル・オーケストラのバイオリン奏者だった。板東で第九をアジア初演したのは、ヘルマン・ハンゼン一等軍楽兵曹が指揮する徳島オーケストラ。一方、パウル・エンゲル二等兵が指揮するエンゲル・オケは、徳島オケと競い合うように収容所内で名曲のコンサートを重ねていった。

 「残念ながら、第九初演の話は聞いていない。でも、きっと父も歴史を刻んだ初演の会場にいたのでしょう」

 晩年の父と一緒に散歩をするとき、板東の思い出を語ってもらった。絵も達者で18年3月の「俘虜製作品展覧会」の肖像画部門で一等賞を受賞したこと、伯父のフレデリックさんはテニスに打ち込んでいたことなどを知った。板東収容所の公正で適切な捕虜の処遇は松江豊寿所長がもたらしたという史実も学び、深い感銘を受けた。

 ジームセン家は代々医師が多い家系だった。父も「いつか医師になりたい」と夢見ていたが、祖父の勧めで商人になり、戦争によって人生そのものも狂わされた。

 「それでも、板東に収容されたことは彼にとって幸運だった」とジームセンさんは語る。敵国で捕らわれの身となりながら、決して人生に絶望することはなかったからだ。

 収容所から解放後、父は自らのルーツであるドイツで新たな一歩を踏み出した。歯学を勉強して歯科医になり、さらに努力を重ねて念願の内科医になった。42年、実に52歳の年だった。

 ジームセンさんは、亡き父の胸の内に思いを巡らす。

 「板東の人道的な運営は、他者を受け入れる地域住民の寛容さも大きく影響したと思う。その精神に触れたことで、父は人間というものを信じ、夢を持ち続けられたのではないでしょうか」。