ハンブルクに残る戦争史跡について説明するジームセンさん
戦争の歴史に翻弄された「戦没兵士栄誉の碑」=ドイツ・ハンブルク

歴史が示す教訓重要

 ドイツ北部のハンブルクの中心部には、宮殿のように豪華な市庁舎が立つ。多くの観光客でにぎわう庁舎前広場の近くに、探していた記念碑を見つけた。

 第1次大戦の戦没兵士栄誉の碑。片面には「市の4万人の息子たちが、あなたたちのために命を落とした。1914〜1918」と書かれ、反対側には悲しみに暮れて抱き合う母と娘の像が刻まれている。

 この母娘の像はナチス・ドイツ時代、「戦没者の栄誉にふさわしくない」と削り取られ、代わりにワシが刻まれた。しかし第2次大戦後、元の形に戻されたことで知られる。

 「記念碑一つ取っても、戦争に翻弄されたドイツの歴史が浮かび上がる。興味があるなら、ハンブルクに残る他の戦争史跡についても知りたいですか?」

 この街で内科医として働くジームズ・ジームセンさん(75)が申し出てくれた。第1次大戦中、鳴門市にあった板東俘虜収容所のドイツ兵捕虜、ウィリアムさん(1890〜1961年)の三男だ。

 ジームセンさんが語った史跡の中で、脳裏に刻み込まれた場所がある。ハンブルク南部のブレンフーザー・ダム学校。正確には戦前戦後の学校施設で、第2次大戦中はナチスの強制労働施設として使われた。

 42年、ヒトラーは次の決定を下す。「国家の福利に関することであれば、生体実験は原則として許可される」

 そして44年末から、ハンブルクのノイエンガンメ強制収容所で結核に関する実験が行われた。被験者は5〜12歳のユダヤ系の少年少女20人。皮膚の下に結核菌を埋め込んで経過を診るという悪魔のような所業だった。

 戦争末期の45年4月20日、衰弱しきった子どもたちはブレンフーザー・ダム学校に運ばれ、首をつるされるなどして殺された。世話係の大人4人も同じように殺された。

 「想像することもためらわれる。これ以上、残酷な犯罪がありますか」。ジームセンさんは一人の医師として、激しい怒りを言葉に込める。

 父ウィリアムさんも内科医だった。板東収容所から解放後、苦労を重ねて42年に52歳で医師となった。ところが同年、ドイツ国防軍の従軍医として第2次大戦に駆り出される。

 デンマークへの赴任を経て、戦争末期はハンブルクで救助部隊として活動した。街は連合軍の空爆で焦土と化し、民家の52・3%が失われた。ジームセンさんも家族で防空壕に逃げたことを覚えている。そんな状況の中、懸命に生存者の救出に当たった。

 戦後、父はジームセンさんにこう語ったという。「私は武器を手にすることがなかった。あの戦争で、それが唯一の救いだった」

 敵国の人道的な収容所でドイツ兵が第九を歌った板東の史実、あまりに残酷で凄惨なナチスの戦争−。そのいずれもが実際にこの世界で起き、テロや紛争の絶えない現代へとつながっている。

 今、ジームセンさんは歴史が示す教訓の重要さを痛感している。

 「民族意識の高まりによって空気がざわつく今の社会は、第1次大戦前夜によく似ている。私たちは、しっかりと歴史を見詰め直さなければならない時期を迎えていると思う」。