シベリア抑留中の悲惨な体験などを語る山川育英さん=徳島市吉野本町の自宅

 「五族協和」をうたい、日本が傀儡国家として1932(昭和7)年、中国東北部に建国した満州国。その指導者を育成するため、38年に首都新京(長春)に設立された建国大学で山川育英さん(97)は学んだ。

 旧制徳島中学(現城南高)を4年で修了。「大陸でひと仕事したい」と思い立ち、39年、2期生として入学した建国大には日本人や中国人、朝鮮人、ロシア人などの学生がいて国際色豊かだった。「入学試験も大学の講義も日本語。全額国費で賄われた上、学生には月5円が支給されたので競争率は高く、優秀な学生ばかり。射撃、行軍、グライダー、外国語、柔道、剣道なども学んだ」と言う。

 43年12月、本科2年生、21歳の時に徴兵検査を受けて現地で陸軍の部隊に入営。やがて兄戦死の知らせを受け、悲しみに暮れる。

 その後、国境守備隊の情報将校をしていた山川さんは45年7月、新京の関東軍司令部に呼び出され、約30人の仲間と特務機関員の研修を受けた。「従来の特務機関とは違い、武力を持つ戦闘力のある部隊を作り、敵中深く潜入しかく乱するのが狙い。ホテル住まいの好待遇で、参謀の講義を聞いた」と振り返る。

 研修後、ソ連国境に近い孫呉に移り、特別警備隊の編成を急いだが、8月8日にソ連が対日参戦したため、編成を終えないまま解散した。

 行き場をなくした山川さんは黒河特務機関と行動を共にした。そこで上官から敵中潜入の命を受けた。80人の義勇軍を指揮して敵の補給を脅かし、時間を稼いで、ソ連軍の進攻を阻止せよという命だ。13日夜、軍資金と現地工作用の大量のアヘンを渡され、出発する直前、司令部命令で作戦は中止になった。「死を意識していた。あと5分、中止の命令が遅ければ、出発していただろう」

 日本の敗戦を知った山川さんは自決を決意する。「天皇陛下が治める日本が負けるなど夢にも思わなかった。捕虜になっては生きておれんと思った」。孫呉の丘に上り宮城(皇居)の方角を遥拝し、拳銃を頭に当てた。「引き金を引こうとする瞬間、兄が残した言葉を思い出した。『俺が戦死しても、あいつ(育英さん)がおるから、後のことは大丈夫だと信じる』。そう言って兄は家を出たと親から聞いていた。だからこれは死ねない。どんなことがあっても生きて帰らなきゃいかんと」

 ソ連軍の捕虜になり、シベリア鉄道でイルクーツクに近いジップヘーゲンの収容所に運ばれた。捕虜に課せられたのは木材伐採の強制労働だ。山川さんら将校は、兵隊が伐採のノルマを達成するように監督するのが役目だった。

 ある冬の日、担当区域の地形が悪く、ノルマを到底、達成できないことが分かった。そのまま作業すると、全員が凍傷になると判断した山川さんは「仕事せんでええから、火に当たって休んどれ」と命令した。

 夕方、ノルマを見に来たソ連兵に事情を説明したが「お前の責任だ」と言われ、懲罰用の営倉に入れられた。「ストーブに燃料がないのを知った兵隊が営倉に山のようにまきを運んでくれた。それを一晩中たいて命が助かった」と語る。

 収容所での生活は悲惨を極めた。「ヘビや犬を殺して食ったり、畑で盗んで食ったりして命をつないだ。華族出身の先輩将校は清廉潔白で何一つ悪いことをせず、ソ連がくれたものだけを食べて、栄養失調で亡くなった」と言う。

 「この収容所で何十人亡くなったか分からない」と山川さんは言葉を継いだ。最後は栄養失調でやせ細って骨と皮のようになるのだと。亡くなると外のテントに入れて、10体ほど集まると山に火葬に行った。

 「死体を車に積んで山に引っ張っていく時、道が凍っているのでカリカリと音がする。その音がいまだに頭に残っている。あの時の哀れな気持ちは・・・」

 死と背中合わせの収容所で3年近く。兄の言葉を支えに耐えた山川さんは48年6月、京都府の舞鶴港に復員した。「舞鶴の宿舎の廊下には、日本全国の都市の爆撃状況が分かる地図を張っていた。徳島市の新町や助任は真っ赤に塗られていた。一番気になったのは家族の生死」。実家に帰国を知らせる電報を打ち、徳島駅に迎えに来た母親と再会し、家族の無事を知った。

 戦後は徳島県職員になり、県東京事務所長や徳島財務事務所長などを務めた。

 「戦争は何よりも悪の最たるもの。戦争ほど残虐なものはない」。3時間余り、厳しい表情を崩さずに戦争の記憶を語り続けた山川さんは、孫やひ孫の写真に視線を移した時、初めて笑顔を見せた。

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