太平洋戦争時に徳島県内で起きた徳島大空襲以外の空襲被害についてまとめるため、徳島新聞が市町村史や県警察史などの文献を調べたところ、関係者の証言などを基に8月と9月に報道した空襲も含めると、少なくとも35カ所の空襲で人的被害があり、合計で死者は309人、負傷者は301人以上に上ることが分かった。今回の調査で新たに11カ所で人的被害のあった空襲が判明、死者は12人、負傷者は31人だった。

 平成の大合併前に発刊された県内50市町村史と県警察史、県史を分析した。日時や被害状況などが不明のケースは目立つものの、これらの史料は地域の史実に詳しい関係者が詳細な調査を基にまとめていることが多い。県立博物館の長谷川賢二学芸員は「戦時下の混乱期で物的証拠が乏しい面はあるが、空襲の有無など基本情報についての信頼性は高い」としている。

 分析の結果、13市町でこれまでに報道していない空襲に関する記述があった。

 このうち、最も人的被害が大きいのは、徳島市史に記されている1945(昭和20)年6月2日午前7時40分ごろの空襲。徳島市津田町の海岸付近に米軍機1機が焼夷(しょうい)弾を落とし、民家54戸が全焼、14戸が半焼した。死者は2人、負傷者は19人と記されている。

 鳴門市史などによると、同年3月20日には鳴門市撫養町木津で国民学校の子ども8人が機銃掃射で狙われた。1人が亡くなり、4人がけがを負った。

 県警察史には、同年6月26日、旧東祖谷山村(現三好市)に水中兵器・機雷が投下されたとの記述がある。不発で被害はなかったとされているが、それ以上の詳しいことは分からない。

 徳島、阿南、鳴門各市など沿岸部の被害が多いが、山間部も例外ではない。旧貞光町(現つるぎ町)や旧木屋平村(現美馬市)で米軍機がガソリンタンクを落としたとの記録が町史と村史にある。

 各史料や証言を総合すると、県内で初めての空襲被害は44年3月13日とみられる。県警察史に阿南市椿町周辺の民家14戸が焼夷弾で燃えたとの記録がある。徳島新聞が先に得た証言では、45年8月10日ごろに阿波市市場町であった銃撃が最も遅い空襲とみられる。

 長谷川学芸員は「体験者は当時のささいな出来事も後世に伝えてほしい。公的資料がない今、そうした情報が積み重なることでより詳しい被害状況や新たな戦禍の確認につながる」と訴えている。

 徳島新聞は、県内最大の被害があった1945年7月4日の徳島大空襲(死者約千人、負傷者約2千人)以外の空襲被害の状況を調査。8月3日付で報道し、その後新たに分かった被害を9月19日付で掲載した。過去2回の報道では、県内24カ所の空襲により、合計で死者297人、負傷者270人に上ることが明らかになっていた。