米軍艦載機の機銃掃射があった現場。長谷寺の石垣に当たった跳弾の破片が道路向かいにいた女児を襲った=鳴門市撫養町

 「卒業式の日だったので、よく覚えている」。鳴門市撫養町木津にあった木津神(こつがみ)国民学校の卒業式と終業式の日だったそうだ。83歳の女性=同市撫養町木津=は「名前は控えさせてほしい」と言いつつ、当時の状況を思い起こして語ってくれた。

 1945(昭和20)年3月20日。当時5年生だった女性は、6~2年生の7人と一緒に集団で登校していた。詳しい時間は覚えていないが、通常より遅い時間だった。

 8人は仲が良く、この日もわいわいと話をしながら歩いていた。そんな日常が姿を変えたのは、ある民家の前に差し掛かった時だった。家の中から流れるラジオ放送が聞こえた。

 「米軍艦載機が編隊を組んで徳島上空を飛んでいる」と知らせていた。これまで地区では空襲などの被害もなく平穏だった。まさか米軍機の襲撃が起こるとは誰も思わなかった。

 正午前だったか、金比羅神社前で突然空襲警報のサイレンが鳴り響いた。8人は道路南側の民家の軒下にいち早く待避したが、戸は閉まっていて中には入れない。軒下の幅は1メートルもないほど。低学年を後列
にかがませて高学年が前列に並び、近くにあった砂袋で顔を隠して身を寄せ合った。

 間もなく艦載機の音が鳴り響き、機銃掃射が始まった。弾は道路向かいの長谷寺の石垣に当たり、跳弾の破片が8人を襲った。

 腹部に当たった6年生が倒れ、5人が血まみれになった。悲鳴を聞きつけた付近の住民が5人をリヤカーに乗せて病院に運び込んだが、6年生の女児は出血多量で翌日に死亡した。女児は春から女学校に進学する予定だった。他の児童は命に別条はなかったが、通院を余儀なくされた。

 女性は前列にいながら幸いにも無事だった。「空襲がどのぐらい続いたかは覚えていないけど、砂袋がぼろぼろになるほど激しく、生きた心地がしなかった」と振り返る。

 無事だった3人は登校せず、泣きながらその場から帰宅した。卒業式や終業式が行われたどうかも知らない。

 「機銃掃射はただの嫌がらせだったのでは。もう少し終戦が早ければ、仲良しだった友達も死なずにすんだし、原爆も落とされることもなかったのに」と残念がる。

 この日以降、地区では照明弾が落とされて夜空が真っ赤になるなど空襲がたびたび起こるようになった。女性は、自宅の防空壕(ごう)に避難することも何度か経験した。「米軍機の音を聞くだけでも気持ちが悪く、怖かった」

 長谷寺の石垣は当時のまま残っているが、銃撃の跡らしきものはうかがえない。8人中4人は存命で、今も変わらず旧交を温めているが、当時のことを口にすることはないという。

 県内の空襲被害がさらに各地で起こっていたことが分かった。体験者の話をつづり、改めて語り継ぐ大切さを考える。